『風の歌を聴け』の感想文ないしはレビュー、もしくは書評のようなもの
1970年8月8日〜8月26日
この期間が『風の歌を聴け』という物語の大半を占める。
計算してみると、今から44年も前に起こった出来事ということになる。
1970年とはいったいどんな年だったんだろう?
- 映画『イージー・ライダー』と『M★A★S★H』が日本で公開された。
- マクドナルド1号店が銀座にオープンし、アポロ13号が宇宙空間で様々な異常事態に遭遇し、ウーマンリブの運動家が女性の解放を主張しブラジャーを焼いた(※『村上ラヂオ』の「焼かれる」参照)。
- ジミ・ヘンドリックスとジャニス・ジョプリンと三島由紀夫が死に、ナオミ・キャンベルと桜井和寿と宮藤官九郎が産声をあげた。
こう書き出してみると、「僕」と鼠が25メートルプール一杯分ばかりのビールを飲んだ夏は、世界史の授業でいうところの「近現代史」の最後に位置するような随分と昔の物語なんだなぁ、という気がしてくる。
でも、普通はそんなこといちいち考えては読まない(ですよね?)。
なので、いたってナチュラルな状態で『風の歌を聴け』を読んでた訳だけれど、そうすると途端に、「僕」と鼠という人物は今も何処かすぐ近くに存在していて、ビールを飲んでいるような雰囲気がある。
物語の終盤にある、DJ(犬の漫才師)が一通の手紙を読むくだり。
あれなんか、いつ読んでもジーンと来るし、つい昨日のテレビ番組で似た様な内容を見た気にさえなる(さすがに「僕は・君たちが・好きだ」なんて言ってはくれないんだろうけど)。
作品中に出てくる映画はさすがに少し古いから、サム・ペキンパーの『ガルシアの首』をタランティーノの『イングロリアス・バスターズ』に、アンジェイ・ワイダの『灰とダイヤモンド』をアキ・カウリスマキの『過去のない男』あたりにでも差し替える。
その他、いくつかの細かい部分を今風に調整を施す。
そうするだけで、21世紀の現在の物語として充分に成立するように思える。
そういった意味では『風の歌を聴け』って全然古びてない小説なんだなぁ、と関心させられる。
1990年代半ば、アメリカのプリンストン大学であった心理学者の河合隼雄さんと村上春樹の対談。そこで、村上春樹本人がデビュー作『風の歌を聴け』の執筆方法についてこんな風に語っていた。
- ABCDEという順番で物語を作成(何も面白くない)。
- BDCAEという具合に物語をシャッフル(少し面白くなる)。
- DとAの部分を抜いてしまう(不思議な動きが出てくる)。
この時の「小説を面白くしよう!」みたいな気持ち(意気込み)は、今もちゃんと機能を果たしているのかもしれない。
だから、それなりの時間を経た今でも、小説を楽しめることができるのかも。
ところで、群像新人文学賞の選考委員のひとり吉行淳之介さんは選評の中で「「鼠」という少年は、結局は主人公(作者)の分身であろうが・・・」と言ってたけれど、ほんとにそうなのかなぁ?
僕は『風の歌を聴け』を読んでいて、「鼠」=「僕」みたいな構図が頭ん中によぎることなんて全然なかったけれど。 ま、読書なんて読んだもん勝ちだし、誰でも自由に感想を述べればいいんだけど。
それはそうと、『風の歌を聴け』を群像新人文学賞に選んでくれた選考委員の先生たちには感謝してます。
だって、もし受賞を逃していたら、村上春樹は小説なんてもう書かなかったかもしれないから。
以上、『風の歌を聴け』を読んだ感想文ないしはレビュー、もしくは書評のようなもの。