デレク・ハートフィールド
『風の歌を聴け』に描かれている作家デレク・ハートフィールドについて。
経歴
- 1909年 オハイオ州の小さな町に生まれ、そこに育つ。
- 1938年 ニューヨークのエンパイヤ・ステート・ビルの屋上から飛び下りる。
作品
- 『気分が良くて何が悪い?』1936年
- 『虹のまわりを一周半』1937年
宇宙人や化け物が登場しないという意味での比較的シリアスな半自伝的作品。 - 『火星の井戸』
ハートフィールドの作品群の中でも異色な、まるでレイ・ブラッドベリの出現を暗示するような短編。 - 『冒険児ウォルド』
冒険小説と怪奇ものをうまく合わせた、ハートフィールド最大のヒット作。全42編。作品の中で、主人公のウォルドは3回死に、5千人もの敵を殺し、火星人の女も含めて全部で375人の女と交わった。
評価
- 全ての意味において不毛な作家であった。文章は読み辛く、ストーリーは出鱈目であり、テーマは稚拙だった。けれども、文章を武器として闘うことができる数少ない非凡な作家の一人でもあった。ヘミングウェイ、フィッツジェラルド、そういった同時代の作家に伍しても、その戦闘的な姿勢は決して劣るものではない。
- その厖大な作品の量にかかわらず人生や夢や愛について直接語ることの極めて稀な作家であった。
人物像
- 父親は無口な電信技師であり、母親は星占いとクッキーを焼くのがうまい小太りな女だった。少年時代には友だちなど一人もなく、暇をみつけてはコミック・ブックやパルプ・マガジンを読み漁り、母のクッキーを食べるといった具合にしてハイスクールを卒業。卒業後、町の郵便局に勤めてはみたが長続きするわけはなく、この頃から自分の進むべき道は小説家以外にはないと確信するようになった。
- 一番気に入っていた小説は『フランダースの犬』。また、『ジャン・クリストフ』をひどく気に入っていた。
- 五作目の短編が『ウィアード・テールズ(ウェアード・テールズ)』に売れたのは1930年で、稿料は20ドル。その次の1年間、月間7万語ずつ原稿を書きまくり、翌年そのペースは10万語に上り、死ぬ前年には15万語になっていた。レミントンのタイプライターを半年毎に買いかえた、という伝説が残っている。
- 実に多くのものを憎んだ。郵便局、ハイスクール、出版社、人参、女、犬、・・・・・・数え上げればキリがない。しかし好んだものは三つしかない。銃と猫と母親の焼いたクッキー。
- パラマウントの撮影所とFBIの研究所を除けば恐らく全米一の完璧に近い銃のコレクションを持っていた。高射砲と対戦車砲以外の全て。中でも自慢の品は銃把に真珠の飾りをつけた38口径のリヴォルヴァー。
- 母親が死んだ時、ニューヨークまででかけ、1938年6月のある晴れた日曜日の朝に右手にヒットラーの肖像画を抱え、左手に傘をさしたままエンパイア・ステート・ビルの屋上から飛び下りて蛙のようにペシャンコになって死んだ。
- オハイオ州の町外れにある墓地には、遺言に従って墓碑にはニーチェの言葉が引用されている。 「昼の光に、夜の闇の深さがわかるものか。」
デレク・ハートフィールドの言葉
- 「文章を書くという作業は、とりもなおさず自分と自分をとりまく事物との距離を確認することである。必要なものは感性ではなく、ものさしだ。」
- 「ねえ、君。絵のために犬が死ぬなんて信じられるかい?」
- 「宇宙の観念」
- 「君は宇宙空間で時がどんな風に流れるのかしっているのかい?」
- 「誰もが知っていることを小説に書いて、いったい何の意味がある?」
- 「宇宙の複雑さに比べれば、この我々の世界などミミズの脳味噌のようなものだ。」
- 「俺はいつかこれで俺自身をリヴォルグするのさ。」
村上春樹にとってのデレク・ハートフィールド
- 「もしデレク・ハートフィールドという作家に出会わなければ小説なんて書かなかったろう、とまで言うつもりはない。けれど、僕の進んだ道が今とはすっかり違ったものになっていたことも確かだと思う」とのこと。
- 高校生の頃、神戸の古本屋で外国船員の置いていったらしいハートフィールドのペーパー・バックスを何冊か購入(1冊50円)。
- ハートフィールドの墓を尋ねるだけの目的で渡米。ハートフィールド研究家(熱心にして唯一のハートフィールド研究家、『不妊の星々の伝説(Thomas McClure; The Legend of the Sterile Stars: 1968)』を執筆)トマス・マックリュアさんからの手紙を頼りに、オハイオ州にあるハートフィールドの墓へ訪れる。
参考図書
『風の歌を聴け』