丸谷才一さんによる谷崎潤一郎賞の選評
何かの始まり - 丸谷才一
・・・・・・村上春樹氏の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』は、優雅な抒情的世界を長篇小説といふ形でほぼ破綻なく構築してゐるのが手柄である。われわれの小説がリアリズムから脱出しなければならないことは、多くの作家が感じてゐることだが、リアリズムばなれは得てしてデタラメになりがちだつた。しかし村上氏はリアリズムを捨てながら論理的に書く。独特の清新な風情はそこから生じるのである。 この甘美な憂愁の底には、まことにふてぶてしい、現実に対する態度があるだらう。この作家は、世界からきちんと距離を置くことで、かへつて世界を創造する。彼は逃避が一つの果敢な冒険であることを、はにかみながら演じて見せる。無としてのメッセージの伝達者であるふりをして、しかし生きることを探求すると言つてもよからう。 村上氏の受賞を喜ぶ。