『神の子どもたちはみな踊る』の名言や心に響く言葉
村上春樹の短編小説『神の子どもたちはみな踊る』に収められた名言。
神が人を試せるのなら、どうして人が神を試してはいけないのだろう?
『神の子どもたちはみな踊る』 善也の名言
ひとつの顕現があり、秘蹟があったのだ。誉むべきかな。
『神の子どもたちはみな踊る』 善也の名言
音楽に合わせて無心に身体を動かしていると、自分の身体の中にある自然な律動が、世界の基本的な律動と連帯し呼応しているのだというたしかな実感があった。潮の干満や、野原を舞う風や、星の運行や、そういうものは決して自分と無縁のところでおこなわれているわけではないのだ。
『神の子どもたちはみな踊る』 善也の名言
そんなことはどうでもいい。それが誰であれ、見たければ見ればいい。神の子どもたちはみな踊るのだ。
『神の子どもたちはみな踊る』 善也の名言
自分が踏みしめている大地の底に存在するもののことを思った。そこには深い闇の不吉な底鳴りがあり、欲望を運ぶ人知れぬ暗流があり、ぬるぬるとした虫たちの蠢きがあり、都市を瓦礫の山に変えてしまう地震の巣がある。それらもまた地球の律動を作り出しているものの一員なのだ。
『神の子どもたちはみな踊る』 善也の名言
僕らの心は石ではないのです。石はいつか崩れ落ちるかもしれない。姿かたちを失うかもしれない。でも心は崩れません。僕らのそのかたちなきものを、善きものであれ、悪しきものであれ、どこまでも伝えあうことができるのです。神の子どもたちはみな踊るのです。
『神の子どもたちはみな踊る』 善也の名言