村上春樹

村上春樹の経歴やエピソード

『ノルウェイの森』『ねじまき鳥クロニクル』『1Q84』などの長編。
多数の短編とエッセイ。
スコット・フィッツジェラルドやレイモンド・チャンドラーなどの翻訳。
その他、多くの著書で知られる、ノーベル賞候補にも名前が挙がる小説家、村上春樹の経歴やエピソードです。

1949年

1月12日、ともに国語教師の父・千秋(京都のお寺の息子)、母・美幸(船場の商家の娘)の長男として京都市伏見区(※神戸近郊説)に生まれる。

1955年

秋になるとけっこう大きなまつたけが入った「まつたけうどん」が給食に出る兵庫県立西宮市立香櫨園小学校に入学。教育者の家庭でわりに厳しく育てられる。

1961年

芦屋へ転居。兵庫県芦屋市立精道中学校に入学。1年生の時に読んだスタンダールの『赤と黒』に感動を覚える。また、トルストイ、ドストエフスキーなどのロシア文学に特に魅かれる。

1963年

  • 1月、アート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズのライブを神戸で聴きジャズに狂い始める。
  • ビーチ・ボーイズの音楽に出会う!ソニーのトランジスタ・ラジオから流れてきたビーチ・ボーイズの『サーフィンUSA』を聴く。

1964年

兵庫県立神戸高校に入学。

1965年

高校2年生の時に新聞部の編集長に就任。辞書を片手にアメリカの小説を読みふける。最初にペーパーバックで読んだのはロス・マクドナルドの『マイ・ネーム・イズ・アーチャー』。また、カート・ヴォネガットの『猫のゆりかご』を読んで「ワオ!」と思う。他に、エド・マクベイン、レイモンド・チャンドラーなど。

1966年

スコット・フィッツジェラルドの作品を初めて読むも、たいした感銘も受けずに終わる。

1967年

  • ジム・モリソンの音楽に出会う!ザ・ドアーズの歌う『ライト・マイ・ファイア(Light My Fire)』を聴く。
  • 神戸港からフェリーに乗って別府まで行き、バスで阿蘇を超え、来熊(らいゆう)。街中の映画館でサム・ペキンパー脚本の『栄光の野郎ども(The Glory Guys)』を見て、「けっこう面白かったな」という感想を持つ。
  • アーネスト・ヘミングウェイに魅かれていたこの年、スコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー(偉大なるギャツビー)』を初めて読み、スコット・フィッツジェラルドに対して「一流の、しかし時の流れによって風化されてしまった風俗作家」という印象を受ける。

1968年

1年間の浪人を経て早稲田大学文学部演劇科へ入学。上京後3日で標準語を完璧にマスター。
目白の私立寮「和敬塾(経営者は札つきの右翼で、寮長は陸軍中野学校出身の気味の悪いおっさん)」で約半年過ごした後退塾。
シナリオ・ライターになりたいという思いからシナリオ研究会に入るも短期間でやめ、その後は大学の演劇博物館に入りびたりシナリオを読み、年間200本以上の映画を観る生活を送る。
学園紛争に個人的に興味を持ち、出入りがあると石を投げたり殴り合いを行うが、組織で何かやるようなことは不純だという思いからバリケードやデモには参加しなかった。ジャズ喫茶に行き暗いところでコーヒーを飲みながら大江健三郎や吉本隆明を読むことが正統な時代に、村上春樹はピット・インでジャズを聴き、名画座をまわり、ピンボールをするという異端的な過ごし方をする。

1969年

  • 1月12日、二十歳の誕生日。冷え冷えとした薄曇りの冬の日で、アルバイトを代わってくれる人が見つからず、喫茶店のウェイターの仕事をして過ごす。その日は最後の最後まで楽しいことなんて何ひとつない一日で、これからの人生全体を暗示しているように感じた。
  • 新宿にあるジャズクラブ「ピットイン」でサックス奏者の渡辺貞夫さんに煙草用のマッチを貸す。
  • 三沢高校と松山商業による甲子園の決勝戦2日目の熱戦が繰り広げている時、能登半島の田舎道を旅行。途中、畑で農作業をしているおじさんが「このトマトおいしいから持っていきな」と声をかけられ、大きな赤いトマトを3個か4個もらう。

1971年

大学時代の二人の友人のうちの一人である陽子さん(10月3日生まれ、天秤座)と学生結婚。結婚の理由は、大学3年になり同棲を始めるが同棲が嫌いだったこと、一人っ子で育ち家に親しかない従属的な環境から早く自分の世界を持ちたいという思いによる。結婚と同時に陽子さんの実家である文京区千石の寝具屋に居候する。

1974年

1972年頃より昼はレコード屋、夜は喫茶店でアルバイトをし、陽子さんと二人で2年間で250万円を貯金。更に銀行から250万円を借り、国分寺に念願のジャズ喫茶「ピーター・キャット(19坪)」を開店(キース・ジャレットのレコードはなく、ジョン・コルトレーンのレコードもあまり置いてないけど、クロード・ウィリアムソンのレコードが揃っていて、スタン・ゲッツのレコードが沢山ある)。
スペイン風の白い壁、木製テーブルと椅子が品よくレイアウトされた「ジェイズ・バー」を彷彿とさせるたたずまいだった。

1975年

早稲田大学文学部演劇科を卒業。卒業論文は「アメリカ映画における旅の思想」(『駅馬車』から『2001年宇宙の旅』にいたるまで、アメリカ映画の発達とテーマは人と物の移動にある、という論旨)。「卒論を書くのなんてイヤでしかたない」という思いから3日間ででっちあげて卒論を書くも成績は「特優」をもらう。

1977年

「ピーター・キャット」が千駄ヶ谷に移店。

1978年

4月1日午後1時半頃、神宮球場で寝ころんでビールを飲みながらヤクルトVS広島の試合を観戦。先頭バッターのデイブ・ヒルトンがレスト線にヒットを打って二塁へ到達。その時、「そうだ、小説を書いてみよう(才能や能力があるにせよないにせよ、とにかく自分のために何かを書いてみよう)」と思い立ち、新宿の紀伊國屋に行って安物の万年筆と原稿用紙を購入し小説を書き始める。

1978年

  • 「ピーター・キャット」を経営のかたわらスコット・フィッツジェラルドの言葉を時に励みに『風の歌を聴け』を執筆。小説のタイトルはトルーマン・カポーティの短篇の一節「何も思うまい。ただ風にだけ心を向けよう」から名付けられた。
    最初はリアリズムの文体で書くも、全然面白くないという思いから現在の文体へ変更。プロ野球の優勝が決まる頃に書き終わり、神宮前郵便局へ持っていき応募をする。
  • 後楽園球場へ行き、日本シリーズに進出したヤクルト・スワローズを応援。

1979年

  • 文芸雑誌「群像」の編集部から「あなたの作品が最終選考に残りました」という電話を受け取る。
  • 4月、新宿でボブ・マーリーのコンサートを聴く。終了後「んちゃ、んちゃ」というレゲエのリズムで帰路につく。
  • カート・ヴォネガットやリチャード・ブローティガン(ともに大学時代のヒーロー)の影響を受けた『風の歌を聴け』が第22回群像新人文学賞を受賞(選考委員は吉行淳之介丸谷才一島尾敏雄佐々木基一佐多稲子 )。授賞式には青山のVANのバーゲンで買ったオリーブ色のコットン・スーツに色褪せたコンバースの白いスニーカーを履いて出席し、「これから何か新しい人生が始まるんだなあ」という思いに至る。受賞の賞金で猫を購入。
    装幀は『ガロ』の頃からファンであった佐々木マキ(本人曰く「佐々木マキは僕にとっては永遠の天才少年である」とのこと)。
    芦屋市立精道中学校の三年後輩に当たる大森一樹監督により映画化

1980年

  • 『風の歌を聴け』に続く物語(方向性)が必要だという思いから『1973年のピンボール』を、「ちきしょう」とか「くそ」とか悪態をつきながら夜中の台所で執筆。
  • 『風の歌を聴け』と同じく『1973年のピンボール』が芥川賞候補になってしまったことによる周囲の煩わしさから、芥川賞の選考会当日は講談社の人と新宿の住友ビルで賭け麻雀をしていた。結果は1万5千円の負け。
  • 『1973年のピンボール』が芥川賞の候補になった影響から、他人に勧められる形で『街と、その不確かな壁』を執筆、『文學界』9月号に掲載。
    ただ、「小説を書きたい時に小説を書く」という執筆スタイルとは明らかに異なっていた為、『街と、その不確かな壁』は、本人曰く「失敗」、「後悔している」、「自己嫌悪になった」、「(この作品を)一切表に出す気はない」という形で終結。

1981年

  • ある日の陽子さんとの会話。
    村上春樹「とにかく二年間は僕の自由にさせてほしい。それでだめならまたどこかで小さな店を開けばいいじゃないか。まだ若いんだし、やりなおしはきくよ」
    陽子さん「いいよ」
  • 次なる作品(『羊をめぐる冒険』)を取材のため一週間ほど北海道を旅行。

1982年

  • 2月22日、六本木の瀬里奈で糸井重里と対談。
  • 村上龍が『コインロッカー・ベイビーズ』を書く前と書いた後の2度対談を行い、『コインロッカー・ベイビーズ』を読んだ後、儲かっていたジャズ喫茶(「どんなオン・ザ・ロックにも哲学はあるのだ」と思いながらオン・ザ・ロックを作り、毎日毎日いやというほどロールキャベツを作っていた)を閉め千葉県船橋市へ転居。
    専業作家として『羊をめぐる冒険』を、時に村上龍という存在(ライバル)を強い励みに執筆。執筆開始時点では「オープニングは三島由紀夫が死んだところから始める」、「羊を出す」、「最後は海岸で終わる(埋め立てられた故郷の海を見てその思いに至る)」の3つしかなかった。
  • 『羊をめぐる冒険』で第4回野間文芸新人賞受賞。
    『羊をめぐる冒険』を書き終えた後、1ヶ月間仕事をしないでいいようにセッティングする形で煙草をやめ、代わりに走り始める。それまでは、1日約60本の煙草を吸っていた。

1983年

  • 生まれて初めてのロードレース(5キロの部)に出場。
  • 5月、山中湖で行われたロードレース(15キロ)に出場。
  • 6月、皇居の周りを7周(35キロ)、まずまずのペースで走る。
  • 7月18日、マラソン発祥の地ギリシャで、生まれて初めてのフル・マラソン(らしきもの)を一人完走。記録3時間51分。
  • 12月、ホノルル・マラソンをまずまずのタイムで完走。

1984年

  • 『熊を放つ』の作家ジョン・アーヴィングのインタビューを兼ねて、アーヴィングと一緒にニューヨークにあるセントラル・パークをジョギング。
  • 夏、スコット・フィッツジェラルドの母校を自分の目で見てみたいというただそれだけの理由で、プリンストン大学を訪問。図書館の特別室でフィッツジェラルドの直筆の原稿を見せてもらう。
  • ワシントン州ポートエンジェルスにある、レイモンド・カーヴァーとテス・ギャラガーの家を訪問。
  • 8月、『街と、その不確かな壁』を発展させる形で『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の執筆に取り掛かる。
  • 中上健次さんと対談。共通の知人である村上龍氏のことやアメリカの小説、文化などについて語り合う。

1985年

  • 1月12日、36才の誕生日に『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の第一稿を書き終えるも、それを読んだ陽子さんから「ひどいから書き直せ」と言われ、一週間徹夜をして改稿。同年3月に完成。
  • 『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』で第21回谷崎潤一郎賞を受賞(選考委員?は大江健三郎吉行淳之介丸谷才一丹羽文雄)。
  • 10月5日、ギリシャのエルミオーニで、『羊男のクリスマス』のまえがきのようなもの(佐々木マキさんの思い出)を執筆。

1986年

  • 4月21日、ジョン・アーヴィング『熊を放つ』の訳者あとがきを執筆。
  • 小澤征爾さんとボストン交響楽団によるブラームスの交響曲第一番を聴く。
  • 9月、中島らもの著書『啓蒙かまぼこ新聞』のために「中島らもとニュー・ウェストの抬頭」という文章を執筆。
  • 『西風号の遭難』で第9回絵本にっぽん賞特別賞を受賞。
  • 「『螢』をもっと長くして書いたらどうですか。あれが好きだからもっと長く読みたい、続きが読みたい」
    当時、担当をしていた講談社の木下さんが発したこのひと言がきっかけで、短編『螢』を発展させる形で『ノルウェイの森』をギリシャのミコノス島で書き始める。また、短編集『回転木馬のデッド・ヒート』に収められた短編によってリアリズムを書く訓練をしたことが『ノルウェイの森』執筆に大きく影響し、短編『ファミリー・アフェア』を書いた手応えにより登場人物のひとりである小林緑を描くこともできた。

1987年

  • 春、『ノルウェイの森』をローマで書き終える。
    書き終えた小説のタイトルについて「どういうタイトルがいいかな」と陽子さんに尋ねたところ、「『ノルウェイの森』でいいんじゃない」との返答があり最後の最後ようやく決定(この時まで陽子さんはビートルズの『ノルウェーの森』を一度も聴いたことがなかった)。
    100パーセントの恋愛小説です」というコピーを帯に載せ売り出される。
  • 5月30日、ポール・セロー『ワールズ・エンド(世界の果て)』の訳者あとがきを執筆。
  • 8月21日、雑誌『ハイファッション』の原稿「どうして僕は雑誌の連載が苦手なのかということにつて」(『村上朝日堂 はいほー!』収録)を執筆。
  • 12月17日、『ダンス・ダンス・ダンス』の執筆を開始。

1988年

3月24日、およそ100日間で『ダンス・ダンス・ダンス』の執筆を完了!村上春樹が長編を書くペースとしてはインターバルが異常に短い。リアリズムで書かれた『ノルウェイの森』から村上作品本来の物語性へ戻ること、40才になる前にもうひとつまとまった仕事をしようと思ったこと、そして何より単純にこの小説(羊男のこと)が書きたかったことを理由に挙げている。
「ある意味では、羊男はずっと僕の心の中に住んでいた。僕は『羊をめぐる冒険』を書き終えたあとでもよく羊男のことを考えた。いるかホテルの暗い部屋の中に今でもひとりでひっそりと生きているであろう羊男のことを。羊男はそこで今いったい何をしているのだろう。そして羊男とは僕にとっていったい何だったのだろう、と。」

1990年

  • 短編『TVピープル』が、アルフレッド・バーンバウム訳でアメリカの雑誌『ニューヨーカー』9月10日号に掲載。二作目として『ねじまき鳥と火曜日の女たち』が11月26日号に掲載。
  • 10月末、雑誌『ハイファッション』の編集者マツオさん(香川県出身)、安西水丸さんと一緒に二泊三日のうどん三昧のうどん取材を敢行。その合間に金刀比羅宮へ訪れ、金刀比羅宮の階段を走って登る。

1991年

  • ボストン・マラソンを初めて走る。
  • プリンストン大学アジア研究部客員研究員となる。
    湾岸戦争によってアメリカのナショナリズムが高揚するなかで『ねじまき鳥クロニクル』を書き始める(小説の出だしは短篇『ねじまき鳥と火曜日の女たち』)。
    プリンストン大学の図書館にあったノモンハン事件に関するいくつかの書物を読む過程で、この戦争(ノモンハン事件)を小説の軸のひとつにすることを決める。また、作品の一部は切り取られ、新たに『国境の南、太陽の西』として生まれ変わる。
    『ねじまき鳥クロニクル』からAppleのパソコンにより執筆が行われる。
  • 短編『象の消滅』が『ニューヨーカー』11月18日号に掲載。

1992年

  • 4月20日、ボストン・マラソンを走る(2回目)。
  • 短編『眠り』が『ニューヨーカー』3月30日号に掲載。続いて、『納屋を焼く』が11月2日号に掲載。
  • ニューヨークのブルーノートでディジー・ガレスピーのLIVEを聴く。

1993年

  • 雑誌『ニューヨーカー』からの優先契約の申し出にサインをする。
  • プリンストン大学の生協でサイン会を開催。ただ、15冊しか売れなかった。

1994年

  • 4月18日、6784番のゼッケンを胸に付けボストン・マラソンを走る(3回目)。
  • 4月20日〜25日、テキサス州オースティンにあるテキサス州立大学で講演、地元の書店でサイン会、レセプションに参加。
  • 4月26日、客演指揮者ベルナルト・ハイティンクの指揮によるボストン・シンフォニーのコンサート(曲目はブラームスの交響曲一番など)を観賞。
  • 4月29日、ケンブリッジのジャズ・クラブでソニー・ロリンズのなかなか圧倒的な演奏を聴く。
  • 5月5日、プリンストン大学のジョーンズ・ホールで100人ほどの聴衆を前に河合隼雄さんと対談。司会は同大学助教授のホセア・平田さん。
  • 雑誌『ニューヨーカー』の特集号「ニューヨーカー作家」の集いに参加。ジョン・アップダイク、ニコルソン・ベイカー、アリス・マンロー、ボビー・アン・メイソン、アン・ビーティー、ジャマイカ・キンケード、トム・ジョーンズなど、名だたる作家と記念撮影。その後、アルゴンキン・バーへ移動し、みんなで和気あいあいと(ちっともおいしくない)カクテルを飲んでいると、ジョン・アップダイクに呼ばれ「君の作品はいつも読んでいる。どれも素晴らしいよ」と言われた。

1995年

  • 4月1日、およそ2ヶ月後に出版される『夜のくもざる』のあとがきを執筆。
  • 4月10日、2ヶ月後に出版される『夜のくもざる』のあとがきを安西水丸さんが執筆。
  • 4月16日、タフツ大学の陸上競技用トラックをランニング。
  • 『ねじまき鳥クロニクル』が第47回読売文学賞を受賞。

1996年

6月23日、サロマ湖100キロウルトラマラソンを11時間42分のタイムで完走!。

1997年

  • 8月某日、トライアスロンのバイク部門攻略のため、江戸川サイクリングロードを自転車に乗って特訓。
  • 9月28日、新潟県で行われる村上国際トライアスロンに、パナソニックのチタン製バイク「死ぬまで18歳」号と共に出場。

1998年

  • アメリカ軍厚木基地内で行われた、日本盲人マラソン協会主催のマラソンに、目の見えないランナーの伴奏者として参加。
  • 7月9日、数日後に開催されるティンマン・トライアスロンに備えて、アラモアナ公園でランニング。
  • 7月12日、ハワイのオアフ島で開催されたティンマン・トライアスロンに参加。ゼッケンは1647番。
  • 『約束された場所で-underground(2)』で第2回桑原武夫学芸賞受賞。

2000年

  • 村上国際トライアスロンに出場するも、水泳の部で突然泳げなくなり途中棄権。
  • 20世紀最後の日。車のラジオからたまたま流れてきたブライアン・ウィルソンの『キャロライン・ノー』を聴きながら、夕焼けを眺めるためにカウアイ島のノースショアをドライブ。

2004年

4年ぶりに村上国際トライアスロンに再挑戦。

2005年

  • 6月、月間260キロ(週に60キロ)を完走。
  • 7月、月間310キロ(週に70キロ)を完走。
  • 7月末、マサチューセッツ州ケンブリッジからハワイ、カウアイ島へ移動。
  • 『走ることについて語るときに僕の語ること』を書き始める。
  • 8月5日、ハワイ・カウアイ島のノースショアにて、ラヴィン・スプーンフルの2枚のアルバム『デイドリーム』と『ハムズ・オブ・ザ・ラヴィン・スプーンフル』を聴きながらランニング。
  • 8月14日、カーラ・トーマスとオーティス・レディングの音楽を聴きながらランニング。
  • 8月25日、アメリカの雑誌『ランナーズ・ワールド』のための写真撮影。
  • 8月、月間350キロ(週に80キロ)を完走。
  • 9月10日、ハワイから日本に帰国。
  • 9月、月間300キロ(週に70キロ)を完走。
  • 10月6日、MIT(マサチューセッツ工科大学)にてリーディング。450人収容の教室に1,700人くらいの聴衆が集まるほどの大盛況。
    「わざわざ僕のリーディングを聴きに来てくれてありがとう。こんなにたくさん来てくれるとわかっていたら、フェンウェイ・パーク(球場)を使ったんだけど」という出だしで始まったリーディングは大成功。
  • 10月9日、ニューヨーク・シティー・マラソンの前哨戦として、ボストン・マラソンを主催するBAA(Boston Athletic Association)が開催するハーフ・マラソンに参加。
  • 10月17日、アパートの階段を下りようとして「膝が笑う」。
  • 10月20日、4日ぶりに走る。膝に異常は感じられない。
  • 10月27日、膝に違和感は感じない。
  • 10月29日、ニューヨーク・シティー・マラソンを初めて走るランダムハウスの担当者リズからEメールが届き、「楽しんでください(Have a good time!)」と返信。
  • 11月6日、ニューヨーク・シティ・マラソンに出場。

2006年

  • 4月、昨年のニューヨーク・シティ・マラソンが不本意な結果に終わったため、異例(原則フル・マラソンは年に1度と決めているので)のボストン・マラソン出場。
  • チェコの文学賞、フランツ・カフカ賞を受賞。
  • アイルランドの文学賞、フランク・オコーナー国際短篇小説賞を受賞。
  • 7月23日、年末に出版される『はじめての文学』のあとがきのようなもの「かえるくんのいる場所」を執筆。
  • 8月1日、2ヶ月後に出場するトライアスロンのため、自転車の練習。
  • 10月1日、村上国際トライアスロンに出場 。9時56分、サイレンが鳴りスタート。
  • 秋、『走ることについて語るときに僕の語ること』を書き終える。

2007年

  • 5月、ホノルル・トライアスロンに出場。
  • 8月某日、『走ることについて語るときに僕の語ること』の前書き「選択事項(オプショナル)としての苦しみ」を執筆。
  • 8月某日、『走ることについて語るときに僕の語ること』の後書き「世界中の路上で」を執筆。
  • 11月、『村上ソングズ』のまえがきを執筆。

2009年

  • イスラエルのエルサレム賞を受賞。映画『真昼の決闘』のゲーリー・クーパーになったような気分でエルサレムへ向かい、「Of Walls and Eggs / 壁と卵」のスピーチを行う。
    また、エルサレルム賞受賞者にノーベル文学賞の受賞者が多数いることもあり、これまで以上にノーベル文学賞の候補に名前が挙がるようになる。
  • 8月、『ノルウェイの森』が10,000,000部を突破。部数を伸ばした背景として、エルサレム賞の受賞、『1Q84』のヒット、『ノルウェイの森』の映画化などが理由として挙げられる。
  • 9月、スコット・フィッツジェラルド『冬の夢』の訳者あとがき「『グレート・ギャツビー』に向けて」を執筆。

2010年

  • 7月、『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』のあとがきを執筆。
  • 8月、デンマークのミュン島で行われたマリアンヌさんという地元のおばさんが主催する文学祭に出席。
  • 9月24日、翌々月に出版されるイラストレーション付き短編『ねむり』のあとがきを執筆。
  • 11月16日、自宅で小澤征爾さんと最初の対話。
  • 12月11日、映画『ノルウェイの森』が日本公開。

2011年

  • 1月13日、東京の事務所で小澤征爾さんと2度目の対話。
  • 2月10日、東京の事務所で小澤征爾さんと3度目の対話。
  • 2月22日、東京の事務所で小澤征爾さんと4度目の対話。
  • 3月29日、東北大震災の18日後。ハワイのホノルルで小澤征爾さんの5度目の対話。
  • 6月、スペインのカタルーニャ国際賞を受賞。受賞スピーチで東日本大震災と原発について語る。
  • 6月27日〜7月6日、「小澤征爾スイス国際音楽アカデミー」に同行。

2012年

  • 5月12日、ハワイ大学マノア校から名誉博士号を取得。
  • 『小澤征爾さんと、音楽について話をする』で、第11回小林秀雄賞受賞。
  • 11月8日、小澤征爾さん、小澤征爾さんの娘の征良さんと一緒にジャズ・ピアニスト大西順子さんの引退ライブを神奈川県厚木市にある小さなジャズ・クラブ「Cabin」で聴く。演奏後、大西順子さんが「今夜で引退します」と言うと、小澤征爾さんが「おれは反対だ!」と言った。
  • 翌年春に出版されるイラストレーション付き短編『パン屋を襲う』のあとがきを執筆。

2013年

  • 『『小澤征爾さんと、音楽について話をする』で聴いたクラシック』の音楽CDのライナーノーツを執筆する。
  • 5月6日、親交のあった河合隼雄さんの「河合隼雄物語賞・学芸賞」創設にあたって、京都大学で公開インタビューを行う。村上春樹による文化庁長官時代の河合隼雄さんの物真似から始まり、慣れないという関西弁で「アイムソーリー、アイムソーリー」と河合隼雄さんのダジャレを話すと、その場の空気が一気に和んだ。
  • 8月6日、『恋しくて – TEN SELECTED LOVE STORIES』の訳者あとがきを執筆。
  • 大学生として上京以来、一貫してヤクルト・スワローズのファンを続けた結果、ヤクルトスワローズのファンクラブ「Swallows CREW」の名誉会員に就任。名誉会員は、リアクション芸人の代表格出川哲朗(※Wikipedia調べ)に続いて2人目の快挙。
  • 10月31日、客員研究員を務めるハワイ大学マノア校であったシンポジウムで講演。「ビーチにも行かずに、来てくれてありがとう」とあいさつし、会場の笑いを誘った。

2014年

  • 3月、翌月に出版される短編集『女のいない男たち』のまえがきを執筆。
  • エディンバラ国際ブックフェスティバル(Edinburgh International Book Festival)に登壇。
    8月23日は『ねじまき鳥クロニクル』について新聞紙ガーディアンの記者と対談、翌24日は新作『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』についての講演。
  • 8月30日、イギリスでの『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』出版開始にあたって、ロンドンの本屋さんWaterstones Piccadillyでサイン会を開催。
  • 9月6日、小澤征爾さん指揮によるサイトウ・キネン・フェスティバルを鑑賞。
  • ドイツの新聞紙DIE WELTによるウェルト文学賞を日本人の作家として初めて受賞。
  • 11月22日、『アフターダーク』の作品中にも流れる音楽『バクダン・ジュース』がオープニングを飾るスガシカオのツアー最終日を鑑賞。
  • 2015年に小澤征爾さんが80歳を迎えるのにあたって実施される「小澤征爾80歳記念キャンペーン」に対して、「いつまでも動き続けてください」というメッセージを執筆。

2015年

1月15日、期間限定サイト「村上さんのところ」オープン!