村上春樹「やれやれ」調査団

芝刈りをする村上春樹のやれやれ

村上春樹のキーワード「やれやれ」って、いったい幾つあるんだろう?

そう思ったことはありませんか?
この疑問を解決すべく、村上春樹「やれやれ」調査団は発足しました。
調査は現在進行形で進められています。
なので、内容は随時更新する予定になっています。

ジェイズ・バーにやってきた『1973年のピンボール』のピンボール会社の集金人兼修理人のやれやれ

週に一度、ピンボール会社の集金人兼修理人がジェイズ・バーにやってきた。彼は三十ばかりの異様にやせた男で、殆んど誰とも口をきかなかった。店に入ってくるとジェイには目もくれずにピンボール台の下にあるふたを鍵で開け、小銭をザラザラとキャンバス地のずた袋に流しこんだ。そしてその一枚を取ると、点検のために機会に放り込み、二、三度プランジャーのバネの具合を確かめてから面白くもなさそうにボールをはじいた。それからボールをバンパーに当ててマグネットの調子を点検し、全てのレーンを通過させ、全てのターゲットを落とした。ドロップ・ターゲット、キックアウト・ホール、ロート・ターゲット・・・・・・、最後にボーナス・ライトを点けてしまうとやれやれといった顔付きでボールをアウト・レーンに落としてゲームを終えた。そしてジェイにむかって何も問題はない、という具合に肯いて出ていった。煙草が半分燃え尽きるほどの時間しかかからなかった。
は煙草の灰を落とすのも忘れ、はビールを飲むのも忘れ、二人はいつも唖然としてその華麗なテクニックを眺めたものだ。

酔っ払ってアパートに戻った『羊をめぐる冒険』の「僕」のやれやれ

海、か。
は再び歩きはじめる。海のことはもう忘れよう。そんなものはとっくの昔に消えてしまったのだ。
十六歩めで立ち止まって目をあけると、僕はいつものように正確にドアのノブの前にいた。郵便受けから二日ぶんの新聞と二通の封書を取り出し、小脇にはさむ。そして迷路のようなポケットからキー・ホルダーをとり出し、それを手に持ったまま冷やりとした鉄のドアにしばらく額をつけた。耳の後ろ側でかちんという小さな音がしたような気がした。体が綿のようにアルコールを吸い込んでいるのだ。比較的まともなのは意識だけだ。
やれやれ
ドアを1/3ばかり開けてそこに体をすべりこませ、ドアを閉める。玄関はしんとしていた。必要以上にしんとしていた。

「先生」のことについて話す『羊をめぐる冒険』の「僕」の相棒のやれやれ

「どこの会社にも弱みのひとつくらいあるってわけだな」
「どこの会社だって株主総会で爆弾発言はされたくないからね。言うことは大抵聞いてくれる。つまり先生は政治家と情報産業と株という三位一体の上に鎮座ましましているわけさ。それでわかったと思うけれど、彼にとってはPR誌を一冊つぶしたり我々を失業者にするくらい、ゆで玉子をむくより簡単なことなんだよ」
「ふうん」と僕はうなった。「しかしそれほどの大物がどうして北海道の風景写真一枚を気にするんだ」
「実に良い質問だな」と相棒はたいてい感動的でもなさそうに言った。「ちょうど僕が君にしようとしていたのと同じ質問だよ」
我々は黙った。
「ところで何故羊の話だってわかったんだ?」と相棒は言った。「何故だ?俺の知らないところでいったい何が起こってるんだ?」
「縁の下で名もない小人が紡ぎ車をまわしてるんだよ」
「もう少しわかりやすく言ってくれないか?」
「第六感だよ」
やれやれ」と相棒はため息をついた。「それはともかく最新情報が二つある。さっき言った月刊誌の記者に電話で聞いてみたんだ。ひとつは先生が脳卒中かなんかで倒れて再起不能になっているって話だ。でもこれは正式には確認されていない。もうひとつはここに来た男のことだ。彼は先生の第一秘書で、組織の現実的な運営を任されているいわばナンバー・ツーだ。日系二世でスタンフォードを出て、十二年前から先生の下で働いている。わけのわからない男だけど、おそろしく頭は切れるらしい。わかったのはそれくらいだよ」
「ありがとう」と僕は礼を言った。
「どういたしまして」と相棒は僕の顔を見ずに言った。

飛行機について会話を交わす『羊をめぐる冒険』の完璧な形をした一組の耳を持っている女の子のやれやれ

「飛行機の中で食事が出るんだとばかり思っていたわ」と不服そうに彼女は言った。
「いや」と言って、僕はグラタンのかたまりを口の中で少しさましてから呑みこみ、すぐに冷たい水を飲んだ。ただ熱いだけで味なんて殆んどしなかった。「機内食が出るのは国際線だよ。国内線だってもっと長い距離なら弁当くらい出ることもあるけどね。でもそれほど美味いものでもないよ」
「映画は?」
「ないよ。だって札幌までなら一時間と少しでついちゃうもの」
「じゃあ何もないじゃない」
「何もないよ。座席に座って本を読んでると目的地に着くんだ。バスと同じさ」
「信号がないだけね」
「うん、信号はない」
やれやれ」と言って彼女はため息をついた。そしてスパゲティーを半分残してフォークを置き、紙ナプキンで口もとを拭いた。「名前なんてつけるまでもないじゃない」
「そうだね。退屈なもんだよ。時間がずっと短くてすむってことだけだ。汽車で行くと十二時間はかかるからね」
「それでその余った時間はどこに行ったの?」
僕はグラタンを途中であきらめ、コーヒーを二杯注文した。「余った時間?」
「だって飛行機のおかげで十時間以上も節約できたんでしょ?それだけの時間はいったいどこに行ったの?」
「時間はどこにも行かない。加算されるだけだよ。我々はその十時間を東京なり札幌なりで好きに使うことができるんだ。十時間あれば映画を四本観て、二回食事できる。そうだろ?」
「映画も観たくないし、食事もしたくなければ?」
「それは君の問題だよ。時間のせいじゃない」

北海道の山についての本を読んだ『羊をめぐる冒険』の「僕」のやれやれ

僕は途中で書店に入って北海道全図と「北海道の山」という本を買い、喫茶店に入ってジンジャー・エールを二本飲みながら読んでみた。北海道には信じられぬほど多くの山があり、そのどれもが似たような色と似たような形をしていた。鼠の写真に写った山と本に出ている写真の山をひとつずつ見比べてみたが、十分ばかりで頭が痛くなった。それにだいいち本の写真にとりあげられている山の数は北海道の山全体から見ればほんの一部なのだ。それに同じひとつの山でも見る角度を変えるだけでがらりと印象が違ってしまうこともわかった。「山は生きています」と筆者はその本の序文に書いていた。「山はそれを見る角度、季節、時刻、あるいは見るものの心持ちひとつでがらりとその姿を変えてしまうのです。従って我々は常に山の一部分、ほんのひとかけらしか把握してはいないのだという認識を持つことが肝要でありましょう」
やれやれ、と僕は声に出して言った。それからもう一度無駄であることが認識された作業にとりかかり、五時の鐘を聞くと公園のベンチに座って鳩と一緒に玉蜀黍(とうもろこし)をかじった。

北海道の羊についての話を聞いた『羊をめぐる冒険』の「僕」のやれやれ

「道庁の畜産課では殆んど何もわからなかったわ」と彼女は言った。「つまり羊はもう見放された動物なのね。羊を飼っても採算があわないのよ。少なくとも大量飼育・放牧という形態ではね」
「じゃあ少ないぶんだけみつけやすいとも言える」
「それがそうでもないのよ。緬羊飼育が盛んであれば独自の組合活動もあるし、それなりのきちんとしたルートが役所でも把握できるんだけど、今のような状況では中小の緬羊飼育の実態はまるで把めないの。みんなが猫や犬を飼うみたいに勝手に少しずつ羊を飼っているようなものだからね。一応わかっているだけの緬羊業者の住所は三十ばかり控えてきたけれど、これは四年前の資料だし、四年のあいだには結構移動があるらしいわ。日本の農業政策は三年ごとに猫の目みたいに変化しているから」
やれやれ」と僕は一人でビールを飲みながらため息をついた。

いるかホテルに泊まる『羊をめぐる冒険』の「僕」のやれやれ

彼女の乳房は見れば見るほど異常に大きいように思えはじめた。きっとゴールデンゲート橋のワイヤ・ロープのようなブラジャーを使っているのだろう。何人かの若い社員は彼女と寝たいと思っているようだった。二枚のガラスと一本の通りごしに彼らのそんな性欲が僕につたわってきた。他人の性欲を感じるというのは奇妙なものだ。そのうちにそれが僕自身の性欲であるかのような錯覚にとらわれてしまう。
五時になって彼女が赤いワンピースに着替えて帰ってしまうと、僕は窓のカーテンを閉め、テレビで「バックス・バニー」の再放送を観た。いるかホテルでの八日めはそのように暮れていった。

やれやれ」と僕は言った。やれやれという言葉はだんだん僕の口ぐせのようになりつつある。

羊が写った写真を手にした『羊をめぐる冒険』の「僕」のやれやれ

「偶然だな」と僕は言った。
「偶然と申しますと?」
「実は僕の探している人物は羊に関係してるんですよ。手がかりと言えば彼が送ってきた一枚の羊の写真だけでね」
「ほう」と彼は言った。「よろしければ拝見したいですな」
僕はポケットから手帳にはさんだ羊の写真を出して男に渡した。男はカウンターから眼鏡を持ってきて、じっと写真を眺めた。
「これは覚えがありますね」と彼は言った。
「覚えがある?」
「確かにあります」男はそう言って電灯の下にかけっぱなしになっていた梯子をはずして反対側の壁にたてかけ、天井近くにかかっていた額を手に取り、梯子を下りた。そして額につもったほこりを雑巾で拭きとってから、我々にそれをわたしてくれた。
「これと同じ景色じゃありませんか?」
額自体も十分古びていたが、中の写真はもっと古びて茶色く変色していた。その写真にもはやり羊が写っていた。全部で六十頭くらいはいるだろう。柵があり、白樺林があり、山があった。白樺林の形は鼠の写真とはまるっきり違っていたが、背景の山はたしかに同じ山だった。写真の構図までがそっくり同じだった。
やれやれ」と僕は彼女に言った。「我々は毎日この写真の下を通りすぎていたんだよ」
「だからいるかホテルにするべきだって言ったじゃない」と彼女はこともなげに言った。

羊博士の経歴を振り返った『羊をめぐる冒険』の「僕」のやれやれ

1950年、北海道緬羊会館館長就任。
1960年、長男小樽港にて指切断。
1967年、北海道緬羊会館閉館。
1968年、「ドルフィン・ホテル」開業。
1978年、若き不動産業者、羊の写真について質問。
 - 僕のことだ。

やれやれ」と僕は言った。

別荘の管理人と会話を交わす『羊をめぐる冒険』の「僕」のやれやれ

男は作業着のポケットから煙草を取り出そうとしたが箱は空っぽだった。僕は半分ばかり吸ったラークの箱に二つ折りにした一万円札を添えて彼に差し出した。男はしばらくそれを眺めてから受け取り、煙草を一本口にくわえてから残りを胸のポケットにつっこんだ。「悪いな」
「で、持ち主はいつから来たんですか?」
「春。雪溶けがまだ始まってないころだから三月だね。来たのはもう五年ぶりかな?なんで今頃になって来るのかはわからんけど、まあそれは持ち主の勝手で、あたしらの口出すことじゃないもんな。誰にも言わんでくれということだから事情でもあるんだろうよ。とにかくそれからずっと上にいるよ。食料品や石油なんかは俺がこっそり買って、ジープで少しずつ届けてるんだ。あれだけストックがありゃ、あと一年は持つね」
「その男は僕と同じくらいの年で、ひげをはやしてませんか」
「うん」と管理人は言った。「そのとおりだ」
やれやれ」と僕は言った。写真を見せるまでもない。

二時にやってきた『羊をめぐる冒険』の羊男のやれやれ

「中に入っていいかな?」と羊男は横を向いたまま早口で僕に訊ねた。何かに腹を立てているようなしゃべり方だった。
「どうぞ」と僕は言った。
彼は身をかがめてきびきびとした動作で登山靴の紐をほどいた。登山靴には菓子パンの皮みたいに泥が固くこびりついていた。羊男は脱いだ登山靴を両手に持って、慣れた手つきでぱんぱんと叩きあわせた。厚い泥はあきらめたようにどさりと地面に落ちた。それから羊男は家の中のことはよく心得ているといわんばかりにスリッパをはいてすたすたと歩き、一人でソファーに腰を下ろし、やれやれという顔をした。

老博士の研究内容を聞いた『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の「私」のやれやれ

「音?」と私は言った。「骨から音が出るんですか?」
「もちろん」と老人は言った。「それぞれの骨にはそれぞれ固有の音があるんです。それはまあ言うなれば隠された信号のようなものですな。比喩的にではなく、文字どおりの意味で骨は語るのです。で、私の今やっておる研究の目的はその信号を解析することにあるです。そしてそれを解析することができれば今度はそれを人為的にコントロールすることが可能になる」
「ふうむ」と私はうなった。細かいところまでは私には理解できなかったが、もしそれが老人の言うとおりであるとすれば貴重な研究であることは確かなようだった。「貴重な研究のようですね」と私は言ってみた。
「実にそのとおり」と老人は言って肯いた。「だからこそ奴らもこの研究を狙ってきておるわけです。奴らはまったくの地獄耳ですからな。私の研究を奴らは悪用しようとしておるです。たとえば骨から記憶を収集できるとなると拷問の必要もなくなるです。相手を殺して肉をそぎおとし、骨を洗えばよろしいわけですからな」
「それはひどい」と私は言った。
「もっとも幸か不幸かそこまでまだ研究は進んでおらんのです。今の段階では脳をとりだした方がより明確な記憶の収集ができるですよ」
やれやれ」と私は言った。骨だって脳だって抜かれてしまえば同じようなものだ。

一角獣の頭骨を手に入れた『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の「私」のやれやれ

角?
もしそれがほんとうに角だとすれば、私が手にしているのは一角獣の頭骨ということになる。私はもう一度『図説・哺乳類』のページを繰って、額に一本だけ角のはえた哺乳類をさがしてみた。でもどれだけ探しても、そんな動物はいなかった。犀(さい)だけがそれにかろうじて該当したが、大きさと形状からして、それは犀の頭骨ではありえなかった。
私は仕方なく、冷蔵庫から氷をだしてオールド・クロウのオン・ザ・ロックを飲んだ。もう日も暮れかけていたし、ウィスキーを飲んでもよさそうな気がした。それから缶詰のアスパラガスを食べた。私は白いアスパラガスが大好きなのだ。アスパラガスを全部食べてしまうと、カキのくんせいを食パンにはさんで食べた。そして二杯めのウィスキーを飲んだ。
私は便宜的に、その頭骨のかつての持ち主を一角獣であると考えることにした。そう考えないとものごとが前に進まないのだ。
私は一角獣の頭骨を手に入れた。

やれやれ、と私は思った。どうしてこんなに妙なことばかり起るんだろう?私が何をしたというのだ?私はただの現実的で個人的な計算士なのだ。とりたてて野心もないし、欲もない。家族もいないし、友だちも恋人もいない。なるべく沢山貯金をして、計算士の仕事を引退したらチェロかギリシャ語でも習ってのんびりと老後を送りたいと思っているだけの男なのだ。いったいどんな理由で一角獣とか音抜きとか、そんなわけのわからないものに関わらなくてはならないのだ?

家まで本を持ってきてほしいとお願いされた『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の図書館のリファレンス係の女の子のやれやれ

「ということは」と言って、彼女は爪先で前歯をコツコツと叩いた。少なくともそんな音がした。「あなたは私に、あなたの家までその本を持ってきてほしいと要求しているのかしら?よく理解できないんだけれど」
「ありていに言うとそういうことになるね」と私は言った。「もちろん要求してるんじゃなくてお願いしているわけだけどね」
「好意にすがっているわけね?」
「そのとおり」と私は言った。「本当にいろんな事情があってね」
長い沈黙がつづいた。しかしそれが音抜きのせいでないことは、閉館を知らせる『アニー・ローリー』のメロディーが図書館内に流れていることでわかった。彼女が黙っているだけなのだ。
「私はもう五年図書館につとめているけれど、あなたくらいあつかましい人ってそんなにはいないわよ」と彼女は言った。「家まで本を配達しろなんていう人はね。それも初対面でよ。自分でもずいぶんあつかましいと思わない?」
「実にそう思うよ。でも今はどうしようもないんだ。八方ふさがりでね。とにかく君の好意にすがるしかないんだ」
やれやれ」と彼女は言った。「あなたの家に行く道順を教えていただけるかしら?」
私は喜んで道順を教えた。

世界が終わってしまうと聞かされた『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の「私」のやれやれ

「世界が終わる?」
「お願い」と娘は言った。「早く来て私を助けて。でないととりかえしのつかないことになっちゃうわ。彼らが祖父の次に狙うのはあなたなのよ」
「どうして僕が狙われることになるんだい?君ならともかく僕は君のおじいさんの研究のことなんか何ひとつとして知らないじゃないか?」
「あなたはキイなのよ。あなたなしには扉は開かないの」
「なんのことだか理解できないな」と私は言った。
「くわしく電話で説明している暇はないわ。でもこれはとても重要なことなの。あなたが想像しているよりずっと重要なことなのよ。ともかく私を信じて。これはあなたにとって重要なことなの。手遅れにならないうちに手を打たないともうおしまいよ。嘘なんかじゃないわ」
やれやれ」と言って私は時計を見た。「とにかく君はそこを出た方がいいな。君の予想があたっているとしたらそこは危険すぎるからね」
「どこに行けばいいの?」
私は青山にあるオールナイト営業のスーパーマーケットの場所を教えた。「そこの中にあるコーヒー・スタンドで待っててくれ。五時半までには着けるから」
「私とても怖いわ。なんだかま

大事なものを壊されていく『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の「私」のやれやれ

「ちょっと待って・・・・・・」と私は言って立ちあがろうとしたが、小男がテーブルを平手でばんと打って、それを止めた。
大男は次にヴィデオ・デッキを持ちあげ、TVのかどにパネルの部分を何度か思い切り叩きつけた。スウィッチがいくつかはじけとび、コードがショートして白い煙が一筋、救済された魂みたいに空中に浮かんだ。ヴィデオ・デッキを破壊しつくされたことをたしかめると、男はそのスクラップと化した器械を床に放りだし、今度はポケットからフラッシュ・ナイフをひっぱりだした。ぱちんという単純明快な音とともに、鋭い刃があらわれた。それから彼は洋服だんすの扉を開け、ふたつあわせて二十万円近くもした私のジョンソンズ・ボマー・ジャケットとブルックス・ブラザーズのスーツを綺麗に裂いてしまった。
「そんなのってないぜ」と私は小男にどなった。「大事なものは壊さないって言ったじゃないか」
「そんなこと言わないよ」と小男は平然として答えた。「俺はあんたに、何が大事かってたずねたんだ。壊さないなんて言わない。大事なものから壊すんだよ。そんなの決まってるじゃないか」
やれやれ」と言って私は冷蔵庫から缶ビールを出して飲んだ。そして小男と二人で、大男が私の小ぢんまりとした趣味の良い2LDKを破壊しつくしていく様を眺めていた。

やみくろについて聞かされた『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の「私」のやれやれ

「どうして?」
「彼らと話したくなかったからよ。彼らは邪悪な生きもので、彼らの語ることばは邪悪なの。彼らは腐敗や腐ったゴミしか食べないし、腐った水しか飲まないの。昔から墓場の下に住んで死んで埋められた人の肉を食べてたの。火葬になる前の時代まではね」
「じゃあ生きた人間は食べないんだね?」
「生きた人間をつかまえると何日も水に漬けて、腐りはじめた部分から順番に食べていくの」
やれやれ」と私はため息をついた。「何がどうなってもいいから、このまま帰りたくなったよ」
それでも我々は流れに沿って前進した。彼女が先に立ち、私があとにつづいた。私がライトを彼女の背中にあてると、切手くらいの大きさの金のイヤリングがきらきらと光った。
「そんな大きなイヤリングをいつもつけていて重くないのかい?」と私はうしろから声をかけてみた。
「慣れればね」と彼女は答えた。「ペニスと同じよ。ペニスを重いと感じたことある?」
「いや、べつに。そういうことはないな」
「それと同じよ」

地面が動いている理由を聞いた『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の「私」のやれやれ

問題はその地面が揺れて見えることだった。それは奇妙な眺めだった。しっかりとしているはずの硬い岩盤が、まるで流砂のようにくねくねと身をよじらせているみたいに見えるのだ。最初私は自分が頭を強く打ったせいで目の神経がおかしくなってしまったのだと思った。それで懐中電灯の光で自分の手を照らしてみたのだが、手は揺れもせず、よじれてもいなかった。それはいつもどおりの私の手だった。とすれば私の神経が損なわれているというわけではないのだ。本当に地面が動いているのだ。
「蛭よ」と彼女は言った。「穴から蛭の大群が這いあがってきたのよ。ぐずぐずしていると血をぜんぶ吸いとられて抜けがらみたいになっちゃうわよ」
やれやれ」と私は言った。「これが君の言っていた大変なことなのかい?」
「違うわ。蛭はただの先ぶれにすぎないのよ。本当に凄いことはこのあとにやってくるの。急いで」

ボーイング747のシートに座る『ノルウェイの森』のワタナベトオル君のやれやれ

僕は三十七歳で、そのときボーイング747のシートに座っていた。その巨大な飛行機は分厚い雨雲をくぐり抜けて降下し、ハンブルク空港に着陸しようとしているところだった。十一月の冷ややかな雨が大地を暗く染め、雨合羽を着た整備工たちや、のっぺりとした空港ビルの上に立った旗や、BMWの広告板やそんな何もかもをフランドル派の陰うつな絵の背景のように見せていた。やれやれ、またドイツか、と僕は思った。
飛行機が着地を完了すると禁煙のサインが消え、天井のスピーカーから小さな音でBGMが流れはじめた。それはどこかのオーケストラが甘く演奏するビートルズの「ノルウェイの森」だった。そしてそのメロディーはいつものように僕を混乱させた。いや、いつもとは比べものにならないくらい激しく僕を混乱させ揺り動かした。

突撃隊と話す『ノルウェイの森』ワタナベトオル君のやれやれ

「悪いけどさ、ラジオ体操は屋上かなんかでやってくれないかな」と僕はきっぱりと言った。
「それやられると目が覚めちゃうんだ」
「でももう六時半だよ」とは信じられないという顔をして言った。
「知ってるよ、それは。六時半だろ?六時半は僕にとってはまだ寝てる時間なんだ。どうしてかは説明できないけどとにかくそうなってるんだよ」
「駄目だよ。屋上でやると三階の人から文句がくるんだ。ここなら下の部屋は物置きだから誰からも文句はこないし」
「じゃあ中庭でやりなよ。芝生の上で」
「それも駄目なんだよ。ぼ、僕のはトランジスタ・ラジオじゃないからさ、で、電源がないと使えないし、音楽がないとラジオ体操ってできないんだよ」
たしかに彼のラジオはひどく古い型の電源式だったし、一方僕のはトランジスタだったがFMしか入らない音楽専用のものだった。やれやれ、と僕は思った。

小林緑の今やりたいことを聞いた『ノルウェイの森』ワタナベトオル君のやれやれ

「ねえ、ワタナベ君、私が今何をしたがっているかわかる?」
「さあね、想像もすかないね」
「広いふかふかしたベッドに横になりたいの、まず」と緑は言った。「すごく気持ちがよくて酔っ払っていて、まわりにはロバのウンコなんて全然なくて、となりにはあなたが寝てるの。そしてちょっとずつ私の服を脱がせるの。すごくやさしく。お母さんが小さな子供の服を脱がせるときみたいに、そっと」
「ふむ」と僕は言った。
「私途中まで気持良いなあと思ってぼんやりとしてるの。でもね、ほら、ふと我に返って『だめよ、ワタナベ君!』って叫ぶの。『私ワタナベ君のこと好きだけど、私には他につきあってる人がいるし、そんなことできなの。私そういうのけっこう堅いのよ。だからやめて、お願い』って言うの。でもあなたやめないの」
「やめるよ、僕は」
「知ってるわよ。でもこれは幻想シーンなの。だからこれはこれでいいのよ」と緑は言った。
「そして私にばっちり見せつけるのよ、あれを。そそり立ったのを。私すぐ目を伏せるんだけど、それでもちらっと見えちゃうのよね。そして言うの、『駄目よ、本当に駄目、そんなに大きくて固いのとても入らないわ』って」
「そんなに大きくないよ。普通だよ」
「いいのよ、べつに。幻想なんだから。するとね、あなたはすごく哀しそうな顔をするの。そして私、可哀そうだから慰めてあげるの。よしよし、可哀そうにって」
「それがつまり君が今やりたいことなの?」
「そうよ」
やれやれ」と僕は言った。

小林緑の今いちばんやりたいことを聞いた『ノルウェイの森』ワタナベトオル君のやれやれ

「ねえ今私が何やりたいかわかる?」と別れ際に緑が僕に訊ねた。
「見当もつかないよ、君の考えることは」と僕は言った。
「あなたと二人で海賊につかまって裸にされて、体を向いあわせにぴったりとかさねあわせたまま紐でぐるぐる巻きにされちゃうの」
「なんでそんなことするの?」
「変質的な海賊なのよ、それ」
「君の方がよほど変質的みたいだけどな」と僕は言った。
「そして一時間後には海に放り込んでやるから、それまでその格好でたっぷり楽しんでなって言って船倉に置き去りにされるの」
「それで?」
「私たち一時間たっぷり楽しむの。ころころ転がったり、体よじったりして」
「それが君の今いちばんやりたいことなの?」
「そう」
やれやれ」と僕は首を振った。

永沢さんの言葉を突然思い出した『ノルウェイの森』ワタナベトオル君のやれやれ

四月六日に緑から手紙が来た。四月十日に課目登録があるから、その日に大学の中庭で待ちあわせて一緒にお昼ごはんを食べないかと彼女は書いていた。返事はうんと遅らせてやったけれど、これでおあいこだから仲直りしましょう。だってあなたに会えないのはやはり淋しいもの、と緑の手紙には書いてあった。僕はその手紙を四回読みかえしてみたが、彼女の言わんとすることはよく理解できなかった。この手紙は何を意味しているのだ、いったい?僕の頭はひどく漠然としていて、ひとつの文章と次の文章のつながりの接点をうまくみつけることができなかった。どうして「課目登録」の日に彼女と会うことが「おあいこ」なのだ?何故彼女は僕と「お昼ごはん」を食べようとしているのだ?なんだか僕の頭までおかしくなりつつあるみたいだな、と僕は思った。意識がひどく弛緩して、暗黒植物の根のようにふやけていた。こんな風にしてちゃいけないな、と僕はぼんやりとした頭で思った。いつまでもこんなことしてちゃいけない、なんとかしなきゃ。そして僕は「自分に同情するな」という永沢さんの言葉を突然思いだした。「自分に同情するのは下劣な人間のやることだ」
やれやれ永沢さん、あなたは立派ですよ、と僕は思った。そしてため息をついて立ち上がった。

黙々と仕事を続ける『ダンス・ダンス・ダンス』の「僕」のやれやれ

そのうちにPRの仕事だけではなく、一般紙の仕事の依頼も来るようになった。どういうわけか女性誌の仕事が多かった。インタビューの仕事や、ちょっとした取材記事を手掛けるようになった。でもそういうのがPR誌にくらべてとくに仕事として面白いわけではなかった。がインタビューする相手は雑誌の性格上、大半が芸能人だった。誰に何を聞いても、判で押したような答えしか返ってこなかった。彼らがどう答えるかは質問する前から予想がついた。ひどい時には、まずマネージャーが僕を呼びつけて、どんな質問をするのか、前もって教えてくれと言った。だから僕がする質問の答えは始めから全部きちんと答えが用意されていた。僕がその十七歳の女性歌手に決められた以外の質問をすると、隣にいるマネージャーが「そういうことは話が違うからちょっと答えられない」と口を出した。やれやれこの女の子はマネージャーなしには十月の次に何月がくるのかもわからないんじゃないだろうかと僕は時々真剣に心配したものだった。そんな代物はもちろんインタビューとも言えない。

ある体験を語る『ダンス・ダンス・ダンス』のドルフィン・ホテルに勤める眼鏡をかけた女の子やれやれ

ところが、その時、廊下は真っ暗だったの。見える光といえばエレベーターのボタンと階数表示だけ。赤いデジタルの数字。私はもちろんボタンを押したわよ。でもエレベーターはどんどん下に行っちゃって、戻ってこないの。やれやれと思って、私はまわりを見回してみたの。もちろん怖かったけれど、でもそれと同時に面倒だなあとも思ったの。どうしてかわかる?」
僕は首を振った。

考えごとをする『ダンス・ダンス・ダンス』の「僕」のやれやれ

僕がそこまで考えたところでバーテンダーがやってきて、申し訳ありませんがそろそろ閉店の時間になりますのでと申し訳なさそうに言った。時計を見るともう十二時十五分だった。残っている客は僕しかいなかった。バーテンダーはほとんど片付けをすませていた。やれやれ、なんでこんな長いあいだ下らないこと考えていたんだろうと僕は思った。無意味で馬鹿馬鹿しい。どうかしてる。僕は勘定書きにサインして、残っていたマティーニを飲みほし、席を立った。そしてバーを出て、両手をポケットにつっこんだままエレベーターがやってくるのを待った。
でもジョディー・クレオパトラはしきたりによって弟と結婚しなくてはならない、と僕は思った。その幻想のシナリオを僕は頭から追い払えなくなってしまっていた。あとからあとから頭にシーンが浮かんでくるのだ。性格が弱くて屈折した弟。誰がいいかな?ウディー・アレン、まさか。それじゃ喜劇になってしまう。宮廷でしょっちゅう面白くない冗談を言ってはプラスティックの金槌で自分の頭を叩いている。駄目だ。

ドルフィン・ホテルのエレベーターを降りた『ダンス・ダンス・ダンス』の「僕」のやれやれ

落ち着いて考えるんだ。
まずだいいちにこれはあの女の子が遭遇したのとまったく同じ事態なのだ。僕はそれをなぞっているだけなのだ。だから脅えることはないのだ。彼女だって一人でちゃんとこの状況を切り抜けたのだ。もちろん僕にだってできる。できないわけはないのだ。だから落ち着くんだ。彼女がやったのとまったく同じように行動すればいいのだ。このホテルには何かしら奇妙なものが潜んでいるし、それはおそらく僕自身にも関わっていることなのだ。このホテルは間違いなくどこかであのいるかホテルと繋がっているのだ。だからこそ僕はここに来たのだ。そうだろう?そうだ。彼女と同じように行動し、そして彼女が見なかったものを見届けなくてはいけないのだ。
怖いか?
怖い。
やれやれ、と僕は思った。冗談抜きで怖いのだ。丸裸にされたような気がする。嫌な気分だ。深い暗黒は暴力の粒子を僕のまわりに漂わせている。そして僕はそれがうみへびのように音もなくするすると近寄ってくるのを見ることさえできないのだ。救いようのない無力感が僕を支配している。体中の毛穴という毛穴が直に暗闇に曝されているような気がする。シャツが冷たい汗でぐっしょりと濡れている。喉がからからになる。唾を飲み込むのにすごく骨が折れる。
ここはいったい何処なんだろう?ドルフィン・ホテルではない。絶対に違う。それだけは間違いない。ここはどこか違う場所なんだ。僕は何かを踏み越えて、この奇妙な場所に入り込んでしまったのだ。僕は目を閉じて大きく何度か深呼吸した。

かつての同級生とドルフィン・ホテルのフロントの女の子のことを考えている『ダンス・ダンス・ダンス』の「僕」のやれやれ

僕は彼女のことを考えた。彼女が競泳用の黒いつるりとした水着を着て、スイミング・スクールで泳ぎを習っているところを想像した。そしてそこにも映画俳優をやっている僕のかつての同級生がいた。そして彼女も彼に失神するくらい憧れていた。彼がクロールの右手の伸ばし方について注意すると、彼女はうっとりとした目で僕の友達を見た。そして彼女は夜になると彼のベッドにもぐりこんでいった。僕は悲しかった。傷つきさえした。そんなことしちゃいけない、と僕は思った。君には何もわかっちゃいないんだ。彼は感じが良くて親切なだけなんだ。彼は君にやさしい言葉をかけて、君をいかせてくれるかもしれない。でもそれはただ親切なだけなんだよ。それはただ単なる前戯の問題なんだよ。
廊下が右に折れていた。彼女の言ったとおりだった。でも僕の頭の中で、彼女はその僕の同級生と寝ていた。彼は彼女の服を優しく脱がせ、体の部分部分を全部ひとつひとつ褒めた。それも本心で褒めていた。やれやれと僕は思った。まったく感心しちゃうね。でもそのうちにだんだん腹が立ってきた。そんなの間違っていると僕は思った。廊下が右に折れていた。

嫉妬をする『ダンス・ダンス・ダンス』の「僕」のやれやれ

僕はドアの前に立って、しばらくその光を見ていた。
そしてまたあのフロントの女の子のことを考えた。彼女とあの時寝ておくべきだったかな、とふと思った。僕はあの現実の世界にまた戻ることができるのだろうか?そして僕はまたあの子とデートすることができるのだろうか?そう思うと僕は現実の世界やらスイミング・スクールやらに対して嫉妬した。あるいはそれは正確には嫉妬じゃないのかもしれない。それは拡大され歪められた後悔の念かもしれない。でも外見的にはそれは嫉妬にそっくりだった。少なくとも真暗闇の中では嫉妬そのものみたいに感じられた。やれやれ、どうしてこんなところで嫉妬を感じたりするのだ。何かに嫉妬するなんて、ものすごく久し振りのことだった。僕は嫉妬という感情を殆ど感じることのない人間なのだ。何かに嫉妬するには僕はたぶんあまりにも個人的すぎるのだ。でも今、僕は驚くほど強い嫉妬を感じていた。それもスイミング・スクールに対して。

ベッドにもぐりこんだ『ダンス・ダンス・ダンス』の「僕」のやれやれ

風呂を出てベッドにもぐりこんで時計を見ると、もう十時半だった。やれやれと僕は思った。いっそのこともう眠るのはあきらめて散歩にでも出ようかとさえ思った。でもそんなことをぼんやりと考えているうちに突然眠りがやってきた。舞台の暗転みたいな一瞬の急激な眠りだった。眠りに落ちた瞬間のことを僕はちゃんと覚えている。巨大な灰色猿がハンマーを持ってどこからともなく部屋に入ってきて、僕の頭の後ろを思いきり叩いたのだ。そして僕は気絶するみたいに深い眠りに落ちた。

酔いを覚ましながら考えごとをする『ダンス・ダンス・ダンス』の「僕」のやれやれ

僕は酒を何本か飲み、勘定を払って外に出た。空から大きな雪片がゆっくりと舞い下りていた。それはまだ本格的な降りではなかったけれど、雪のせいで街の音はいつもとちがって聞こえた。僕は酔いを覚ますためにそのブロックをぐるりと一周した。何処から始めればいいのだろう?僕は自分の足を眺めながら歩いた。駄目だ、僕は自分が何を求めているのかがわからない。どちらを向けばいいのかさえわからない。錆び付いているんだ。錆びついて固まっている。こうして一人でいると、だんだん自分が失われていくような気がする。やれやれ、何処から始めればいいんだろう?とにかく何処かから始めなくてはならない。あのフロントの女の子はどうだろう、と僕は思った。僕は彼女に好意を感じている。僕と彼女の間には何かしら心が相通じるところがあるように感じる。そしてもし彼女と寝たいと思えば寝られるだろうという気がする。でもそれでどうなるだろう、そこから何処に行けるだろう、と僕は思った。何処にも行けないだろう。たぶん僕がもっと失われるだけのことだろう。何故なら僕には自分が何を求めているかが把握できていないからだ。そして自分が何を求めているのか把握できていない限り、別れた妻が言うように、僕はいろんな相手を傷つけていくことになるだろう。

寒い日にコカコーラを飲んだ『ダンス・ダンス・ダンス』の「僕」のやれやれ

マクドナルドを出てまた三十分歩いた。何もなかった。ただ雪が激しさを増しただけだった。僕はコートのジッパーをいちばん上まだひっぱりあげて、マフラーを鼻の上でぐるぐると巻いた。それでも寒かった。ひどく小便がしたくなった。こんな寒い日にコカコーラなんて飲むからだ。どこか便所がありそうなところはないかなと僕はあたりをみまわしてみた。通りの向かいに映画館が見えた。ひどくうらぶれた映画館だったが、まあ便所くらいはあるだろう。それに小便をしたあとで、映画を見ながら体を温めるというのも悪くない。どうせ暇をもてあましているのだ。何をやっているんだろうと思って看板を見た。日本映画の二本立てで、そのうちの一本が『片思い』だった。僕の同級生の出ている映画だ。やれやれ、と僕は思った。

五反田君の出ている映画を見た『ダンス・ダンス・ダンス』の「僕」のやれやれ

一箇所ベッド・シーンがあった。五反田君が日曜日の朝に自分のアパートの部屋で女と寝ているところに主人公の女の子が手作りのクッキーか何かを持ってやってくるのだ。やれやれ僕が想像したのとまったく同じじゃないか。五反田君は僕が予想したとおりベッドの中でも優しく親切だった。とても感じのいいセックス。すごくいい匂いがしそうなわきの下。セクシーに乱れる髪。彼は女の裸の背中を撫でている。カメラがくるりと回りこむように移動してその女の顔を写し出す。
デジャヴュ。僕は息を呑んだ。

ドルフィン・ホテルのフロントの女の子から有名な女流写真家アメと娘のユキのことを聞いた『ダンス・ダンス・ダンス』の「僕」のやれやれ

「次の飛行機で帰るんだったら、ひとつお願いがあるんだけど、きいてくれる?」
「もちろん」
「実は十三の女の子がひとりで東京に帰らなくちゃならないの。お母さんが用事ができて先に何処かにいっちゃったの。で、その子がひとりでここのホテルに残されたの。悪いけど、あなたその子をちゃんと東京まで連れていってくれないかしら?荷物もけっこうあるし、一人で飛行機に乗せるのも心配だし」
「よくわからないな」と僕は言った。「どうしてお母さんが子供を一人で放り出して何処かに行っちゃったりするんだよ?そんなの無茶苦茶じゃないか?」
彼女は肩をすぼめた。「だからまあ、無茶苦茶な人なのよ。有名な女性カメラマンなんだけど、ちょっと変わった人なの。思いつくとどっかにさっさと行っちゃうの。子供のことも忘れちゃって。ほら、芸術家だから、何かあるとそれで頭が一杯になっちゃうのね。あとで思い出してうちに電話をかけてきたの。子供をそこに置いてきちゃったんで、適当に飛行機に乗せて東京に帰してほしいって」
「そんなの自分で引き取りにくりゃいいじゃないか」
「そんなこと私知らないわよ。とにかくあと一週間仕事でどうしてもカトマンズにいなくちゃならないんだって。それにその人有名な人だし、うちのお得意さんだし、そう邪険にも出来ないのよ。彼女は空港まで運んでくれればあとは一人で帰れるからって気楽にいうんだけど、そうもいかないでしょう。女の子だし、もし何かあったらうちとしてもすごく困るのよ。責任問題になっちゃうし」
やれやれ」と僕は言った。それから僕はふと思いついたことを口に出してみた。「ねえ、その子ひょっとして髪が長くて、ロック歌手のトレーナーを着て、ウォークマンを聴いてない、いつも?」
「そうよ。何だ、ちゃんと知ってるんじゃない」
やれやれ」と僕は言った。

名前を聞かれた『ダンス・ダンス・ダンス』のユキのやれやれ

「心配しないで大丈夫よ」と彼女が言った。「このおじさんは冗談もうまいし、気のきいたことも言ってくれるし、女の子には親切なの。それにお姉さんのお友達なの。だから大丈夫よ、ね?」
「おじさん」と僕は唖然として言った。「僕はまだおじさんじゃない。まだ三十四だ。おじさんはひどい」
でも誰も僕の言うことなんか聞いていなかった。彼女は女の子の手をとって玄関に止まったリムジンの方にさっさと歩いて行ってしまった。ボーイはサムソナイトをすでに車の中に積み込んでいた。僕は自分のバッグを下げてその後を追った。おじさん、と僕は思った。ひどい。
空港行きのリムジンに乗ったのは僕とその女の子だけだった。天候がひどすぎるのだ。空港までの道中どこを向いても雪と氷しか見えなかった。まるで極地だ。
「ねえ、君、名前はなんていうの?」と僕は女の子に聞いてみた。
彼女はじっと僕の顔を見た。そして小さく首を振った。やれやれという風に。それから何かを探すようにゆっくり回りを見回した。どこを向いても雪しか見えなかった。「雪」と彼女は言った。
「雪?」
「名前」と彼女は言った。「それ。ユキ」
それから彼女はウォークマンをポケットからひっぱりだして、個人的な音楽の中にひたった。空港に着くまで僕の方をちらりとも見なかった。

雪に降られ、空港で待ちぼうけをくらう『ダンス・ダンス・ダンス』の「僕」のやれやれ

たぶん運が悪いだけだ、と僕は結論を下した。そして新聞を読んでしまうと、フォークナーの『響きと怒り』の文庫本をバッグから出して読んだ。フォークナーとフィリップ・K・ディックの小説は神経がある種のくたびれかたをしているときに読むと、とても上手く理解できる。僕はそういう時期がくるとかならずどちらかの小説を読むことにしている。それ以外の時期にはまず読まない。途中でユキは一度洗面所に行った。そしてウォークマンの電池を入れ替えた。三十分ほどあとで、アナウンスがあった。羽田行きの便は四時間遅れて出発するというアナウンスだった。天候の回復を待つのだ。僕は溜め息をついた。やれやれ、ここであと四時間も待つのか。

仕事について話す『ダンス・ダンス・ダンス』の「僕」のやれやれ

「あまり仕事が好きじゃないの?」
僕は首を振った。「駄目だね。好きになんかなれない、とても。何の意味もないことだよ。美味い店をみつける。雑誌に出してみんなに紹介する。ここに行きなさい。こういうものを食べなさい。でもどうしてわざわざそんなことしなくちゃいけないんだろう?みんな勝手に自分の好きなものを食べていればいいじゃないか。そうだろう?どうして他人に食い物屋のことまでいちいち教えてもらわなくちゃならないんだ?どうしてメニューの選び方まで教えてもらわなくちゃならないんだ?そしてね、そういうところで紹介される店って、有名になるに従って味もサービスもどんどん落ちていくんだ。十中八、九はね。需要と供給のバランスが崩れるからだよ。それが僕らのやっていることだよ。何かをみつけては、それをひとつひとつ丁寧におとしめていくんだ。真っ白なものをみつけては、垢だらけにしていくんだ。それを人々は情報と呼ぶ。生活空間の隅から隅まで隙を残さずに底網ですくっていくことを情報の洗練化と呼ぶ。そういうことにとことんうんざりする。自分でやっていて」
ユキはテーブルの向かい側からじっと僕を見ていた。何か珍しい生物でも見るみたいに。
「でもやってるのね?」
「仕事だから」と僕は言った。それから僕は突然向かいに座っているのが十三かそこらの女の子であることを思い出した。やれやれ俺はいったいこんな小さな女の子を相手に何を言ってるんだろう?「行こう」と僕は言った。「もう夜も遅いし、そのアパートまで送るよ」

ユキと会話を交わす『ダンス・ダンス・ダンス』の「僕」のやれやれ

ユキはそれについてしばらく考えていた。「奥さんとは通じあえなかったの?」とユキが訊いた。
「通じ合えていると僕はずっと思っていた」と僕は言った。「でも僕の奥さんはそう考えなかった。見解の相違。だから何処かに行っちゃったんだ。たぶん見解の相違を訂正するよりは他の男の人と何処かに行っちゃう方が話が早かったんだろうね」
「スバルみたいには上手くいかなかったのね?」
「そういうことだね」と僕は言った。やれやれ、いったい十三の女の子相手に話す事柄か、これが。
「ねえ、私のことはどう思う?」とユキが訊いた。
「僕はまだ君のことを殆ど何も知らない」と僕は言った。

ユキと電話で会話を交わす『ダンス・ダンス・ダンス』の「僕」のやれやれ

「君は今どこにいるの?」と僕は訊いてみた。
「まだ赤坂のアパート」と彼女は言った。「今からどこかにドライブに行かない?」
「悪いけど今日は駄目だ」と僕は言った。「今は仕事の大事な電話を待ってるんだ。また今度にしよう。ねえ、そうだ、昨日の話だけど、羊の皮をかぶった人を君は見たの?その話が聞きたいんだ。それ、すごく大事なことなんだ」
「また今度」と彼女は言って思いきりがちゃんと電話を切った。
やれやれ、と僕は思った。そしてしばらく手に持った受話器を眺めていた。

五反田君と車について会話を交わす『ダンス・ダンス・ダンス』の「僕」のやれやれ

「自分じゃこんなもの運転しない。僕自身はもっと小さい車が好きだな」
「ポルシェ?」と僕は訊いた。
「マセラティ」と彼は言った。
「僕はそれよりもう少し小さい車が好きだけど」と僕は言った。
「シビック?」と彼が訊いた。
「スバル」と僕は言った。
「スバル」と五反田君は言って、肯いた。「そういえば昔乗ってた。僕が最初に買った車だよ。もちろん経費なんかじゃなくて、自分の金で買った。最初の映画に出たギャラで中古を買ったんだ。僕はすごくそれが気に入ってた。それに乗って撮影所に行ったんだ。二本目で準主役がついた頃だよ。すぐに注意された。お前、スターになりたきゃスバルなんか乗るなって。それで買いかえた。そういう世界なんだ。でもいい車だった。実用的。安い。僕は好きだよ」
「僕も好きだ」と僕は言った。
「どうしてマセラティなんかに乗ってると思う?」
「わからないな」
「経費を使う必要があるからだよ」と彼はよくない秘密を打ち明けるように眉をひそめて言った。「マネージャーがもっともっと経費を使えっていうんだ。使いかたが足りないって。だから高い車を買うんだ。高い車を買うと経費がいっぱい落ちる。みんな幸せになる」
やれやれ、と僕は思った。みんな経費以外のことが考えられないのか?

「僕」と電話で会話を交わす『ダンス・ダンス・ダンス』のユキのやれやれ

「元気?」と彼女は言った。
「とても元気だよ」と僕は言った。
「今何してるの?」と彼女は言った。
「そろそろ昼飯を作ろうかなと思ってたんだ。ぱりっとした調教済みのレタスとスモーク・サーモンと剃刀の刃のように薄く切って氷水でさらした玉葱とホースラディッシュ・マスタードを使ってサンドイッチを作る。紀ノ国屋のバター・フレンチがスモーク・サーモンのサンドイッチにはよくあうんだ。うまくいくと神戸のデリカテッセン・サンドイッチ・スタンドのスモーク・サーモン・サンドイッチに近い味になる。うまくいかないこともある。しかし目標があり、試行錯誤があって物事は初めて成し遂げられる」
「馬鹿みたい」
「でも美味しい」と僕は言った。「嘘だと思ったら、蜜蜂に訊いてもいい。しろつめ草に訊いてもいい。本当に美味しいんだ」
「何よ、それ?蜜蜂としろつめ草というのは?」
「たとえだよ」
やれやれ」とユキは溜め息まじりに言った。「あなた、もう少し大人になれば、もう三十四でしょう?私から見てもちょっと馬鹿みたいよ」

「漁師」と「文学」に家に訪れられた『ダンス・ダンス・ダンス』の「僕」のやれやれ

文学がコートのポケットから警察手帳を出して何も言わずに僕に見せた。映画みたい、と僕は思った。僕はそれまで警察手帳なんて見たこともなかったけれど、一見してそれは本物であるように感じられた。くたびれかたが革靴のくたびれかたによく似ていたからだ。でも彼がコートのポケットから出してさしだすと、なんだか同人誌を売りつけられているような気がした。
「赤坂署のものです」と文学が言った。
僕は肯いた。
漁師はオーバーコートのポケットに両手をつっこんだまま一言も口をきかなかった。ただ何気なく戸口に片足を置いていた。ドアが閉められないように。やれやれ、本当に映画みたいだ。

ユキと五反田君のことを考えている『ダンス・ダンス・ダンス』の「僕」のやれやれ

赤坂の彼女のアパートの前で僕は車を停めた。そして「着いたよ、お姫様」と言った。
彼女はガムを包装紙にくるんでダッシュボードの上に置いた。そしてけだるそうにドアを開けて車から降り、そのまま行ってしまった。さよならも言わず、ドアも閉めず、後ろも振り返らず。複雑な年頃なのだ。あるいはただ単に生理なのかもしれない。でもこういうのってまるで五反田君の出ていた映画の筋みたいだな、と僕は思った。傷つきやすく複雑な年頃の少女。いや、五反田君なら僕よりもっとずっと上手く手際よくやるだろう。彼が相手ならユキだってボオッとして恋をしてしまうかもしれない。そうしないと映画にならないから。そして・・・・・・やれやれまた五反田君のことを考えている。僕は頭を振ってから、助手席に移って体を伸ばしてドアを閉めた。ばたん。そしてフレディー・ハバードの『レッド・クレイ』をハミングしながら家に帰った。

ユキの家族構成を知った『ダンス・ダンス・ダンス』の「僕」のやれやれ

「ゲイ?」と僕は聞いた。
「知らなかったの?」
「いや、知らなかった」
「馬鹿みたい。見ればわかるじゃない」とユキは言った。「パパにその趣味があるかどうかはしらないけど、あれはとにかくゲイよ。完璧に。二〇〇パーセント」
ロキシー・ミュージックがかかるとユキはラジオのボリュームを上げた。
「ママはね、昔からずっと詩人が好きなの。詩人だか詩人志望だとかの若い男の子。現像したり何のかんのしているときに後ろで詩を朗読させるの。それが趣味なの。変な趣味。詩なら何でもいいのよ。宿命的に引かれるみたい。だからパパも詩を書ければよかったんだけどね。あの人はどう転んだって詩を書けるわけないし・・・・・・」
不思議な家族だ、と僕はあらためて思った。宇宙家族。行動派作家と天才女流写真家と霊媒的少女とゲイの書生と詩人のボーイフレンド。やれやれ。僕はこのサイケデリックな拡大家族の中で一体どういう位置を占め、どういう役割を果たしているのだろう?調子はずれの娘の面倒を見る剽軽な男付き添い、というあたりだろうか。僕はフライデーが僕に見せた感じの良い微笑を思い出した。あれはひょっとしたら連帯の微笑だったのだろうか?おい、よしてくれよ、と僕は思った。これは一時的なことなんだよ。休憩時間なんだよ。わかるか?休暇が終わったら僕はまた雪かき仕事に戻らなくっちゃならないし、そうすればもう君たちと遊んでいる暇なんてないんだ。これは本当に一時的なことなんだよ。本筋には関係のない挿話のようなものなんだ。すぐに終わる。そのあとは君たちは君たちだけでやればいい。僕は僕でやっていく。僕はもっとシンプルでわかりやすい世界が好きなんだよ。

アメと会話を交わす『ダンス・ダンス・ダンス』の「僕」のやれやれ

「ごめんなさいね。仕事の手が離せなかったもんだから」とアメは言った。「途中で手が離せない性格なの。やりだすと駄目なの」
詩人はアメのためにビールとグラスを運んできた。そしてまた片手で器用にプルリングを取り、ビールをグラスに注いだ。彼女は泡が収まるのを見届けてから、それを一口で半分飲んだ。
「それで、あなた、いつまでハワイにいられるの?」とアメは僕に訊いた。
「わかりませんね」と僕は言った。「別に決めてないんです。でもたぶん一週間くらいでしょう。今は休暇中なんです。そのうちに日本に帰って仕事を始めなくてはなりませんし・・・・・・」
「長くいるといいわよ。良いところよ」
「それはまあ良いところです」と僕は言った。やれやれ、僕の言うことなんて何も聞いてないのだ。

ハワイ的な一日を送った『ダンス・ダンス・ダンス』の「僕」のやれやれ

僕は自分の部屋に戻るとワインの瓶とグラスを居間に持ってきてTVでクリント・イーストウッドの『奴らを高く吊るせ』を見た。またまたクリント・イーストウッドだ。そしてまたまたにこりともしない。僕はワインを三杯飲むあいだ映画につきあっていたが、途中でだんだん眠くなってきたのであきらめてTVを消し、バスルームに行って歯を磨いた。これで一日が終わった、と僕は思った。有意義な一日だっただろうか?それほどでもない。まあまあというところだ。朝ユキにサーフィンを教え、それからサーフボードを買ってやった。夕食を食べ、『E.T.』を見た。そしてハレクラニのバーで二人でピナ・コラーダを飲み、優雅に踊る老人たちを眺めた。ユキが酔っ払い、僕は彼女をホテルに連れて帰った。まあまあだ。良くも悪くもハワイ的な一日だった。しかしとにかくこれで一日が終わった、と僕は思った。
でも物事はそう簡単には終わらなかった。
僕はTシャツとパンツだけになってベッドにもぐりこみ、電気を消して五分も経たないうちにドア・ベルがかんこんと鳴った。やれやれまったく、と僕は思った。時計は十二時少し前を指していた。僕は枕もとの電気をつけ、ズボンをはいて戸口に行った。僕がそこに行くまでにベルはあと二回鳴った。ユキだろう、と僕は思った。それ以外に誰かが僕を訪ねてくるなんて考えられないから。だから僕はそれが誰であるかも確かめずにドアをあけた。でもそこにいたのはユキではなかった。知らない若い女だった。
「ハーイ」と彼女は言った。
「ハーイ」と僕も反射的に言った。

マセラティとスバルを交換した『ダンス・ダンス・ダンス』の「僕」のやれやれ

「フェラーリ」と僕は言った。
「言いたいことはわかる」と彼は笑って言った。「でもあきらめてくれ。君には想像もつかないだろうけど、僕らの世界では趣味がいいと生き残っていけないんだ。そこでは『趣味が良い人』というのは『ひねくれた貧乏人』というのと同義なんだ。同情されるだけだ。誰もほめてくれない」
結局五反田君はスバルに乗って帰っていった。僕は彼のマセラティを駐車場に入れた。敏感でアグレッシブな車だった。反応が鋭く、パワフルだった。アクセルをちょっと踏むと月まで飛んでいってしまいそうだった。
「そんなに頑張らなくていいんだよ。気楽にやろう」と僕はダッシュボードをとんとんと叩き、明るい声でマセラティに言いきかせた。でもマセラティは僕の言葉なんかろくに聞いてもいないみたいだった。車だって相手の顔を見るのだ。やれやれ、と僕は思った。マセラティだって。

渋谷の喫茶店で「僕」と会話を交わす『ダンス・ダンス・ダンス』の文学のやれやれ

「僕が殺したわけじゃない」と僕は言った。
「もちろんそれはわかってます。あなたじゃない」と文学は言った。「だから言ったでしょう、あなたが殺したんじゃないことはわかってるって。おたくは人を殺すタイプじゃないです。見たらわかる。人を殺さないタイプというのは、本当に人を殺さないんです。でもあなたは何かを知ってる。それはね、勘でわかるんだ。私らはプロですからね。だからね、教えてくれませんか?教えてくれればそれでいいです。それでどうこうと固いことは言いませんよ。約束します。本当です」
何も知らない。と僕は言った。
やれやれ」と文学は言った。

マセラティの車内で「僕」と会話を交わす『ダンス・ダンス・ダンス』の五反田君のやれやれ

「何処がいいかな。ロレックスをつけた業界の人間に会う恐れがなくて、二人で静かに話ができて、まともなものの食える店」と彼は言って、僕の方をちらりと見た。でも僕は何も言わずぼんやりと外の景色を眺めていた。三十分ほどぐるぐると走ってから、彼はあきらめた。
やれやれ、どういうわけか全然思いつけないや」と五反田君は溜め息をついて言った。「君の方はどう、どこか知ってるところはある?」
「いや、僕も駄目だ。何も思いつけない」と僕は言った。本当に何も思いつけなかった。頭がまだうまく現実に接続されていないのだ。
「オーケー、じゃあ逆の考え方をしようじゃないか」と五反田君はよく通る明るい声で言った。
「逆の考え方?」
「徹底的にうるさいところに行こう。そうすればかえって二人だけで落ち着いて話ができるんじゃないかな?」
「悪くないけど、例えば何処?」
「シェイキーズ」と五反田君は言った。「ピッツァでも食べないか?」
僕は別に構わない。ピッツァは嫌いじゃない。でもそんなところに行って、君の顔は割れないかな?」
五反田君は力なく微笑んだ。木の葉の間からこぼれる夏の夕暮れの最後の光のような微笑みだった。「君はこれまでシェイキーズで有名人を見掛けたことある?」

五反田君に頼まれビールを買いに行った『ダンス・ダンス・ダンス』の「僕」のやれやれ

彼は椅子の背にかけたレイン・ハットを取って、その湿りけを調べ、それをまたもとに戻した。「友達のよしみで、ひとつ頼みがある」と彼は言った。「もう一杯ビールが飲みたい。でも今は立ってあそこまで行く元気がない」
「いいですよ」と僕は言った。そしてカウンターに行って、またビールを二杯買った。カウンターは混んでいて、買うのに時間がかかった。グラスを両手に奥のテーブルに戻ったとき、彼の姿はなかった。レイン・ハットも消えていた。駐車場のマセラティもなくなっていた。やれやれと思った。そして首を振った。でもどうしようもなかった。彼は消えてしまったのだ。

ユキと別れ、あてもなく街をぐるりとまわり、アパートに戻った『ダンス・ダンス・ダンス』の「僕」のやれやれ

僕は口笛でラビン・スプーンフルの『サマー・イン・ザ・シティー』を吹きながら表参道を通って青山通りまで行って紀ノ国屋で買い物をしようとした。しかし駐車場に車を入れかけたところで、そうだ、明日か明後日にはもう札幌に行くんだと思った。食事を作る必要もないし買い物する必要もないのだ。そう思うと僕は急に手持ち無沙汰になった。さしあたって何もやるべきことがない。
僕はもう一度あてもなく街をぐるりとまわり、それからアパートに戻った。アパートの部屋はひどくがらんとして見えた。やれやれと僕は思った。そしてベッドにごろんと横になって天井を眺めた。こういうのには名前がつけられるぜ、と僕は思った。喪失感、と僕は口に出して言ってみた。あまり感じの良い言葉ではなかった。
かっこう、とメイが言った。それはがらんとした部屋の中に大きく響きわたった。

いるかホテルへ訪れた『ダンス・ダンス・ダンス』の「僕」のやれやれ

でも一時間後にも相変わらずユミヨシさんの姿はなかった。
僕は彼女が何らかの理由で世界から突然消えてしまったんじゃないかとふと思った。たとえば壁に吸い込まれてしまうみたいに。そう思うと、僕はひどく不安な気持ちになった。それで僕は彼女のアパートに電話をかけてみた。電話には誰も出なかった。僕はフロントに電話をかけてユミヨシさんはいるかと訊いてみた。「ユミヨシは昨日から休暇を取って休んでおります」と別の女の子が教えてくれた。明後日から勤務に戻るということだった。やれやれと僕は思った。どうして前もって彼女に電話をしておかなかったんだろう?どうして電話をするということを思いつかなかったんだろう?

クミコに猫を探してと言われた『ねじまき鳥クロニクル』の岡田亨のやれやれ

台所に行って水を飲み、それから縁側に出て猫の食事用の皿を調べてみたが、皿の中の煮干は昨夜僕がそこに盛ったまま一匹も減っていなかった。やはり猫は戻ってきてはいない。僕は縁側に立ったまま、初夏の日差しのさしこむ我が家の狭い庭を眺めた。眺めたからといってとくに心がなごむような庭ではない。一日のうちほんの少しの時間しか日が差さないから土はいつも黒く湿っているし、植木といっても隅の方に二株か三株ぱっとしないアジサイがあるだけだ。それにだいいち僕はアジサイという花があまり好きではない。近所の木立からまるでねじでも巻くようなギイイイッという規則的な鳥の声が聞こえた。我々はその鳥を「ねじまき鳥」と呼んでいた。クミコがそう名づけたのだ。本当の名前は知らない。どんな姿をしているのかも知らない。でもそれに関係なくねじまき鳥は毎日その近所の木立にやってきて、我々の属する静かな世界のねじを巻いた。
やれやれ猫探しか、と僕は思った。僕は猫が昔から好きだった。そしてその猫のことだって好きだった。でも猫には猫の生き方というものがある。猫は決して馬鹿な生き物ではない。猫がいなくなったら、それは猫がどこかに行きたくなったということだ。腹が減ってくたくたに疲れたらいつか帰ってくる。しかし結局僕はクミコのために猫を探しにいくことになるだろう。どうせ他にやることもないのだ。

女と電話で会話を交わす『ねじまき鳥クロニクル』の岡田亨のやれやれ

「十分というのはあなたが考えているよりも長いかもしれないわよ」
「君は本当に僕のことを知っているの?」と僕は訊いてみた。
「もちろんよ。何度も会ったわ」
「いつ、どこで?」
「いつか、どこかでよ」と女は言った。「そんなことここでいちいちあなたに説明していたらとても十分じゃ足りないわ。大事なのは今よ。そうでしょ?」
「でも何か証拠を見せてくれないかな。君が僕のことを知ってるって証拠を」
「たとえば?」
「僕の年は?」
「三十」と女は即座に答えた。「三十と二カ月。それでいいかしら?」
僕は黙りこんだ。たしかにこの女は僕を知っている。しかしどれだけ考えてみても、女の声に聞き覚えがなかった。「じゃあ今度はあなたが私のことを想像してみて」、女は誘いかけるように言った。「声から想像するのよ。私がどんな女かってね。いくつくらいで、どこでどんな恰好をしているか、そんなこと」
「わからない」と僕は言った。
「試してごらんなさいよ」
僕は時計に目をやった。まだ一分と五秒しか経っていない。「わからない」と僕は繰り返した。
「じゃあ教えてあげるわ」と女は言った。「私は今ベッドの中にいるのよ。さっきシャワーを浴びたばかりで何もつけてないの」
やれやれ、と僕は思った。これじゃまるでポルノ・テープじゃないか。

猫を探している時に近所の女の子と会話を交わす『ねじまき鳥クロニクル』の岡田亨のやれやれ

「ねえ、本当に何か飲まない?私はコーラを飲むけれど」と娘が言った。
いらない、と僕は答えた。
娘がデッキチェアから立ちあがって脚を軽くひきずりながら木立の陰に消えてしまうと、僕は足もとの雑誌を手にとってぱらぱらとページを繰ってみた。それは僕の予想に反して男性向けの月刊誌だった。まん中のグラビアでは性器のかたちと陰毛がすけて見える薄い下着をつけた女が、スツールの上に座って不自然な姿勢で両脚を大きく開いていた。やれやれ、と僕は思って雑誌をもとの場所に戻し、胸の上で両腕を組んで再び猫のとおり道に目を向けた。

牛肉とピーマンの炒めものが嫌いなクミコがもたらした『ねじまき鳥クロニクル』の岡田亨のやれやれ

「それからもうひとつついでに言わせてもらえるなら」と彼女は言った。「私は牛肉とピーマンを一緒に炒めるのが大嫌いなの。それは知ってた?」
「知らなかった」
「とにかく嫌いなのよ。理由は訊かないで。何故かはわからないけれど、その二つが鍋の中で一緒に炒められるときの匂いが我慢できないの」
「君はこの六年間、一度も牛肉とピーマンを一緒に炒めなかったのかな?」
彼女は首を振った。「ピーマンのサラダは食べる。牛肉と玉葱は一緒に炒める。でも牛肉とピーマンを炒めたことは一度もないわ」
やれやれ」と僕は言った。
「でもそのことを疑問に思ったことは一度もなかったのね?」
「だってそんなこと気がつきもしなかったよ」と僕は言った。僕は結婚してからこのかた牛肉とピーマンを一緒に炒めたものを食べたことがあるかどうか考えてみた。でも思い出せなかった。
「あなたは私と一緒に暮らしていても、本当は私のことなんかほとんど気にとめてもいなかったんじゃないの?あなたは自分のことだけを考えて生きていたのよ、きっと」と彼女は言った。

クミコと口論する『ねじまき鳥クロニクル』の岡田亨のやれやれ

僕は鍋の中にあるものを全部ゴミ箱に捨てた。牛肉とピーマンと玉葱ともやしが、その中に収まった。不思議なものだな、と僕は思った。一瞬前までそれは食品だった。今ではただのゴミだ。僕はビールの栓を開けて、瓶のまま飲んだ。
「どうして捨てたの?」と彼女は訊いた。
「君がそれを嫌いだからだ」
「あなたが食べればいいじゃない」
「食べたくない」と僕は言った。「牛肉とピーマンを一緒に炒めたものがもう食べたくなくなったんだ」
妻は首をすくめた。「お好きに」と彼女は言った。
それから彼女はテーブルに両腕を置き、その上に顔を伏せた。彼女はそのままじっとしていた。泣いているわけでもないし、眠っているわけでもなかった。僕はレンジの上のからっぽになった鍋を眺め、妻を眺め、それから残っていたビールを一口飲んだ。やれやれ、と僕は思った。いったいどうなってるんだ。たかがティッシュペーパーとトイレットペーパーとピーマンじゃないか。

加納マルタの奇妙な話し方を電話口で聴いた『ねじまき鳥クロニクル』の岡田亨のやれやれ

「今日、これからですか?」
「そうです」
僕は時計を見た。三十秒前に見たばかりだったので、あえて見る必要もなかったのだが、念のためにもう一度見たのだ。時刻はやはり午後の二時半だった。
「それは長くかかることなんですか?」と僕は訊いてみた。
「それほど長くはかからないと思います。でもあるいは思ったより長くかかるかもしれません。今の時点では私にも正確なことは申し上げられないのです。申し訳ありませんが」と女は言った。
でもそれがどれだけ時間のかかることであるにせよ、僕にはとくに選択の余地があるわけではないのだ。僕はクミコが電話で言ったことを思い出した。彼女は僕に、先方の言うとおりにしてくれと言った。それは真剣なことなのだと言った。だから僕としてはとにかく言われたとおりにするしかなかった。彼女がそれを真剣なことだというなら、それは真剣なことなのだ。
「わかりました。それでどちらに伺えばいいんですか?」と僕は訊いた。
「岡田様は品川の駅前にあるパシフィック・ホテルはご存知でいらっしゃいますでしょうか?」と彼女は言った。
「知ってます」
「一階にコーヒールームがあります。そこで四時にお待ちしております。よろしいでしょうか?」
「結構です」
「私は三十一歳で、赤いビニールの帽子をかぶっております」と彼女は言った。
やれやれ、と僕は思った。この女の話し方にはどこかしら奇妙なところがある、と僕は思った。その奇妙さは僕を一瞬混乱させた。しかしその女の言ったことのいったい何がどう奇妙なのか、僕にははっきりとは説明することができなかった。三十一歳の女が赤いビニールの帽子をかぶってはいけないという理由は何もなかった。

加納マルタと会話を交わす『ねじまき鳥クロニクル』の岡田亨のやれやれ

「妹は私より五つ年下です」と加納マルタは言った。「そして妹は綿谷ノボルさまに汚されました。暴力的に犯されたのです」
やれやれ、と僕は思った。僕はそのまま何も言わずに席を立って帰ってしまいたかった。でもそうもいかない。僕は上着のポケットからハンカチを出した。そして口もとを拭いて、それをまた同じポケットに戻した。そして咳払いをした。

ぱっとしない名前にあだ名さえないことを知った『ねじまき鳥クロニクル』の笠原メイのやれやれ

「あなたの名前はなんていうの。名前がわかんないと、呼びにくいから」
「オカダ・トオル」と僕は言った。
彼女は僕の名前を口の中で何度か繰り返していた。「あまりぱっとしない名前じゃない、それ?」
「そうかもしれない」と僕は言った。「でもオカダ・トオルっていう名前にはなんとなく戦前の外務大臣みたいな響きがあると思うんだけど」
「そんなこと言われても私にはわかんないな。歴史のことは苦手なのよ。でもまあいいや、それは。それで、他に何かあだ名みたいなのはないの、オカダ・トオルさん?もっと呼びやすいやつが」
僕は考えてみたが、あだ名なんてひとつも思い出せなかった。生まれてこのかた、そんなものをつけられたことは一度もないのだ。どうしてだろう?「ない」と僕は答えた。
「たとえばクマさんとか、蛙くんとか?」
「ない」
やれやれ」と彼女は言った。「何かひとつ考えてよ」
「ねじまき鳥」と僕は言った。
「ねじまき鳥?」と彼女は半分口を開けて僕の顔を見た。「なあに、それ?」
「ネジをまく鳥だよ」と僕は言った。「毎朝木の上で世界のネジを巻くんだ。ギイイイイイって」
彼女はまだじっと僕の顔を見ていた。

加納クレタと会話を交わす『ねじまき鳥クロニクル』の岡田亨のやれやれ

「でも」と僕は言った。それからしばらく、僕は黙って言葉を吟味していた。「よくわからないな。お姉さんは僕に、あなたが綿谷ノボルにレイプされたようなことを言っていたんですよ。それはまた別の話ですか?」
加納クレタは膝の上のハンカチを手に取って、それでまた口許を軽く拭った。そして僕の目をじっと覗き込むようにして見た。彼女の瞳には何か僕の心を乱すものがあった。
「申し訳ないのですが、コーヒーをもう一杯いただけませんでしょうか」
「もちろん」と僕は言った。僕はテーブルの上のカップを盆に載せて下げ、台所でコーヒーを温めた。僕はズボンのポケットに両手をつっこみ、水切り台にもたれてコーヒーが沸くのを待った。僕がコーヒーカップを持って居間に戻ってきたとき、ソファーの上には加納クレタの姿はなかった。彼女のバッグも、彼女のハンカチも、何もかもが消えてしまっていた。僕は玄関に行ってみた。そこにはもう彼女の靴はなかった。
やれやれ、と僕は思った。

射精したくなかった、でもしないわけにはいかなかった『ねじまき鳥クロニクル』の岡田亨のやれやれ

「大丈夫です」と加納クレタは僕のペニスから口をはなして言った。「まだそれくらいの時間はあります。心配しないで」
そしてまた彼女は舌の先を僕のペニスに這わせた。僕は射精したくなかった。でもしないわけにはいかなかった。それはどこかに呑み込まれていくような感覚だった。彼女の唇と舌はまるでぬるぬるとした生命体のように、僕をしっかりと捉えていた。僕は射精した。そして、目を覚ました。

やれやれ、と僕は思った。浴室に行って汚れた下着を洗い、ねっとりとした夢の感触を追い払うために熱いシャワーで丁寧に体を洗った。夢精なんてしたのはいったい何年ぶりのことだろう。僕は最後に夢精したのがいつのことだったか思い出そうとした。でも思い出せなかった。とにかく思い出せないくらい昔のことだった。

夢を見る『ねじまき鳥クロニクル』の岡田亨のやれやれ

女はそれ以上は何も言わずに、前よりももっとなまめかしく腰を動かし始めた。彼女の柔らかな肉が僕の性器を包み込み、そっと締め上げた。それはまるで独立した生き物のようだった。僕は彼女のからだの背後でドアノブが回される音を聞いた。あるいは聞いたような気がした。何かがきらりと白く闇の中で光った。廊下の光を受けてテーブルの上のアイスペースが光ったのかもしれない。あるいはそれは鋭い刃物のきらめきだったかもしれない。でも僕にはもう何も考えることもできなかった。そして僕は射精した。
僕はシャワーを浴び、体を洗い、精液のついた下着を手で洗った。やれやれ、と僕は思った。どうしてこんなややっこしいときに、わざわざ夢精なんかしなくちゃいけないんだろう。

笠原メイと電話で会話を交わす『ねじまき鳥クロニクル』の岡田亨のやれやれ

「まったくもう」と笠原メイはあきれたように言った。「それで、昨日の夜は私にどんな用事があったの?あなたは何かを求めてうちまで来たんでしょう?」
「それはもういいんだ」と僕は言った。
「もういい?」
「うん。つまりそのことは – もういいんだ」
「あの女の人を抱いたから、もう私には用がなくなったってことなの?」
「いや、そうじゃないんだ。僕はただその時に思ったんだけれど – 」
笠原メイは何も言わずに電話を切った。やれやれ、と僕は思った。笠原メイ、加納マルタ、加納クレタ、電話の女、そしてクミコ。たしかに笠原メイが言ったように、最近の僕のまわりにはいささか女の数が多すぎるような気がする。そしてみんながそれぞれにわけのわからない問題を抱え込んでいる。

首都高速道路の非常階段を降りた『1Q84』の青豆のやれやれ

金網の扉のついた入口があったが、チェーンが幾重にも巻き付けられ、大きな南京錠がかかっていた。高い扉で、てっぺんには有刺鉄線までめぐらされている。とても乗り越えられそうにはない。もし乗り越えられたとしても、服はずたずたになってしまう。ためしに扉を押したり引いたりしてみたが、ぴくりとも動かなかった。猫が出入りするほどの隙間もない。やれやれ、どうしてここまで戸締りを厳しくしなくちゃならないんだ。盗まれて困るものなんて何もないっていうのに。彼女は顔をしかめ、毒づき、地面に唾まで吐いた。まったく、せっかく苦労して高速道路から降りてきたというのに、資材置き場に閉じこめられるなんて。腕時計に目をやった。時間にはまだ余裕がある。しかしいつまでもこんなところでうろうろしているわけにはいかない。そしてもちろん、今さら高速道路にとってかえすわけにもいかない。

女の子を逆まわりの山手線に乗せてしまった『中国行きのスロウ・ボート』の「僕」のやれやれ

僕がその何かに思い当たったのは山手線の電車を目白駅で降りたときだった。そこで僕はやっと気づいた。僕は彼女を逆まわりの山手線に乗せてしまったのだ。
僕の下宿は目白にあったのだから、彼女と同じ電車に乗って帰ればよかったのだ。すごく簡単なことだった。どうしてそれをまたわざわざ逆まわりの電車に乗せてしまったんだろう?酒を飲みすいぎたせいだろうか?あるいは僕は自分のことで頭がいっぱいになりすぎていたのかもしれない。駅の時計は十時四十五分を指していた。おろらく門限には間に合うまい。彼女が早く僕の間違いに気づいて逆まわりの電車に乗り換えていれば別だ。でも僕には彼女がそうするとは思えなかった。彼女はそういうタイプではないのだ。間違えた電車に乗せられたらずっとそのまま乗っているタイプなのだ。それにだいたい彼女には始めからちゃんとわかっていたはずなのだ。自分が間違った電車に乗せられているということが。やれやれと僕は思った。

寝起きの『納屋を焼く』の二十歳で広告モデルの仕事をしている女の子のやれやれ

「次に焼く納屋はもう決まっているのかな?」
彼は目と目のあいだにしわを寄せた。それからすうっという音と立てて、鼻から息を吸いこんだ。「そうですね。決まっています」
僕は何も言わずにビールの残りをちびちびと飲んだ。
「とても良い納屋です。久し振りに焼きがいのある納屋です。実は今日も、その下調べに来たんです」
「ということは、それはこの近くにあるんだね」
「すぐ近くです」と彼は言った。
それで納屋の話は終った。
五時になると彼は恋人を起こし、僕の家を突然訪問したわびを言った。彼はビールを二十本近く飲んだにもかかわらず、完全に素面だった。彼は裏庭からスポーツ・カーを出した。
「納屋のことは気をつけとくよ」と別れぎわに僕は言った。
「そうですね」と彼は言った。「とにかく、すぐ近くです」
「納屋ってなあに?」と彼女が言った。
「男どうしの話さ」と彼が言った。
やれやれ」と彼女が言った。
そして二人は消えた。
僕は応接室に戻り、ソファーに寝転んだ。テーブルの上にはありとあらゆるものが散乱していた。僕は床に落ちていたダッフル・コートをとって頭からかぶり、ぐっすりと眠った。

I・W・ハーパーのオン・ザ・ロックを四杯飲んだ『ファミリー・アフェア』の「僕」とバナナ・ダイキリを二杯飲んだ女子大生のやれやれ

僕は受話器を置き、手帳のページを繰ってべつの女の子の家のダイヤルをまわしてみた。どこかのディスコで知りあった女子大生だ。彼女は家にいた。「飲みにいかないか」と僕は誘った。
「まだ午後の二時よ」と彼女は面倒臭そうに言った。
「時間なんて問題じゃない。飲んでるうちに日も暮れるさ」と僕は言った。「実は夕陽を見るのにうってつけの良いバーがあるんだ。午後の三時には行ってないと良い席がとれない」
「気障な人ね」と彼女は言った。
それでも彼女は出てきてくれた。きっと親切な性格なのだろう。僕は車を運転して海岸沿いに横浜の少し先まで行き、約束どおり海辺の見えるバーに入った。僕はそこでI・W・ハーパーのオン・ザ・ロックを四杯飲み、彼女はバナナ・ダイキリ – バナナ・ダイキリ – を二杯飲んだ。そして夕陽を眺めた。
「そんなにお酒飲んで車を運転できるの?」とその子が心配そうに訊いた。
「心配ない」と僕は言った。「僕はアルコールに関してはアンダー・パーなんだ」
「アンダー・パー?」
「四杯飲んだくらいでちょうど普通になるんだよ。だから何の心配もない。大丈夫」
やれやれ」と彼女は言った。
それから我々は横浜に戻って食事をし、車の中でキスをした。僕は彼女をホテルに行こうと誘ったが、彼女は駄目だと言った。
「だってタンポンが入ってるのよ」
「取ればいい」
「冗談じゃないわ。まだ二日めよ」
やれやれ、と僕は思った。まったくなんという一日だ。こんなことならはじめからガール・フレンドとデートしていればよかったのだ。久しぶりに妹とゆっくり一日を過ごそうと思ったから、僕はこの日曜日に何の約束も入れずにおいたのだ。それがこのザマだ。

婚約者の渡辺昇を家に招く妹に対する『ファミリー・アフェア』の「僕」のやれやれ

「ステーキ肉?」と僕は言った。「僕は昨日ステーキ食ったばかりだぜ。ステーキなんて嫌だよ。コロッケの方がいい」
「あなたは昨日ステーキを食べたかもしれないけど。私たちは食べてないのよ。勝手なこと言わないでよ。だいたいお客をわざわざ夕食に呼んでおいてコロッケ出すわけにいかないでしょ?」
「僕は女の子の家に呼ばれてあげたてのコロッケが出てきたら感動するけどね。細切りの白いキャベツが山盛りついてさ、しじみの味噌汁があって・・・・・・生活というのはそういうものだよ」
「でも今日はとにかくステーキって決めたのよ。コロッケくらいまた今度死ぬほど食べさせてあげるから、今日はわがままを言わずに我慢してステーキを食べて。お願い」
「いいですよ」と僕はあたたかく言った。いろいろと文句は言うけれど、最終的には僕はものわかりの良い親切な人間なのだ。
僕は近所のスーパー・マーケットに行ってメモにあるすべての買物をすませ、酒屋に寄って四千五百円のシャブリを買った。シャブリは僕から婚約した若い二人へのプレゼントのつもりだった。そういうことって、親切な人間にしか思いつけない。
家に帰ってくると、ベッドの上にラルフ・ローレンのブルーのポロシャツとしみひとつないベージュの綿のズボンが畳んで置いてあった。
「それに着がえて」と妹が言った。
やれやれ、と僕は思ったが、文句は言わずに着がえをした。何を言ったところで僕のいつものあたたかい汚れにみちた平和な休日が盆に載って戻ってくるわけではないのだ。

妹の恋人が写った写真を見た『ファミリー・アフェア』の「僕」のやれやれ

「バイクが好きなのよ」と妹は言った。
「見りゃわかる」と僕は言った。「バイクが好きじゃない人間は好きこのんで皮のつなぎなんて着ない」
僕は – これももちろん偏狭な性格のなせる業ということになるだろうが – だいたいにおいてバイク・マニアが好きになれない。格好が大げさすぎるし、能書きが多すぎる。しかしそれについては僕は何も言わないことにした。
僕は黙って写真を妹に返した。
「さて」と僕は言った。
「さてって何よ?」と妹は言った。
「さて、どうなるんだろう、ということだよ」
「わかんないわ。でも結婚するかもしれないわね」
「結婚を申しこまれたっていうこと?」
「まあね」と彼女は言った。「まだ返事はしてないけど」
「ふうん」と僕は言った。
「本当のことを言えば、私だってまだ勤めはじめたばかりだし、もう少し一人でのんびりと遊びたいのよ。あなたほどラディカルじゃないにせよね」
「まあ健全な考え方と言うべきだろうな」と僕は認めた。
「でも彼は良い人だし、結婚してもいいと思うし」と妹は言った。「考えどころね」
僕はテーブルの上の写真をもう一度手にとって眺めた。そして「やれやれ」と思った。

「やれやれ」な一日を過ごした『ファミリー・アフェア』の「僕」のやれやれ

僕は冷蔵庫からビールを出してグラスと一緒に居間に運び、ステレオ・セットのスイッチを入れて、ターン・テーブルにハービー・ハンコックの新しいレコードを載せた。そしてビールを飲みながらスピーカーから音が出てくるのを待った。しかしいつまで待っても音は出てこなかった。そのときになってやっと僕はステレオ・セットが三日前から故障していたことに気がついた。電源は入るのだが、音が出てこないのだ。
同様にTVを見ることもできなかった。僕の持っているのはモニター用のTV受信機で、ステレオ・セットをとおさないことには音が出てこない仕組みになっているのだ。
仕方がないので僕は無音のTVの画面をにらみながら、ビールを飲むことにした。TVでは古い戦争映画をやっていた。ロンメルの戦車隊が出てくるアフリカ戦線のものだ。戦車砲が無音の砲弾を撃ち、自動小銃が沈黙の弾音をばらまき、人々は無言で死んでいった。
やれやれ、と僕はその日十六回めの – たぶんそれくらいになっているはずだ – ため息をついた。

フリオ・イグレシアスのレコードを聴く『ファミリー・アフェア』の「僕」のやれやれ

「それあなたの会社の製品でしょ?」と妹が僕に言った。「そんな弱いプラグつけとくのが悪いのよ」
「僕が作ったわけじゃない。僕は広告を作ってるだけさ」と僕は小さな声で言った。
「はんだごてがあればすぐになおりますよ」と渡辺昇が言った。「ありますか?」
ない、と僕は言った。そんなものがあるわけないのだ。
「じゃあバイクでひとっ走りして買ってきます。はんだごてってひとつあると便利ですから」
「そうだろうね」と僕は力なく言った。「でも金物屋はどこにあったっけな」
「わかります。さっき前を通ってきましたから」と渡辺昇は言った。
僕はまたベランダから顔を出して渡辺昇がヘルメットをかぶり、バイクにまたがって去って行くのを眺めていた。
「良い人でしょ?」と妹は言った。
「心がなごむよ」と僕は言った。
     *
ピンプラグの修理が無事終了したのが五時前だった。彼が軽いボーカルを聴きたいというので、妹はフリオ・イグレシアスのレコードをかけた。フリオ・イグレシアス!と僕は思った。やれやれ、どうしてそんなモグラの糞みたいなものがうちにあるんだ?
「お兄さんはどういう音楽が好きなんですか?」と渡辺昇が訊いた。
「こういうの大好きだよ」と僕はやけで言った。「他にはブルース・スプリングスティーンとかジェフ・ベックとかドアーズとかさ」
「どれも聴いたことないな」と彼は言った。「やはりこういう感じの音楽なんですか?」
「だいたい似てるね」と僕は言った。

「俺はいったい最近何をやっているんだろう?」と思う『ファミリー・アフェア』の「僕」のやれやれ

「そういうのどこが楽しいのかしら?」と彼女は訊いた。「そんな風に野球見ても熱中できないでしょ?」
「熱中しなくてもいいんだ」と僕は言った。「どうせ他人のやってることなんだから」
それから僕はオン・ザ・ロックをもう二杯飲み、彼女にダイキリを二杯おごった。彼女は美大で商業デザインを専攻していたので、我々は広告美術の話をした。十時になると僕と彼女はそのバーを出て、もう少しゆったりとした椅子のある店に移った。僕はそこでまたウィゥキーを飲み、彼女はグラス・ホッパーを飲んだ。彼女はかなり酔っ払っていたし、僕だってさすがに酔っていた。十一時になると僕はその女の子を送って彼女のアパートの部屋に行き、当然のことのようにセックスをした。座布団とお茶を出されるのと同じようなものだった。
「電気を消してよ」と彼女が言ったので、僕は電気を消した。窓からはニコンの大きな広告塔が見え、となりの部屋からはTVのプロ野球ニュースが大きな音で聞こえてきた。暗い上にかなり酔っていたものだから、いったい何をやっているのか自分でもよくわからないくらいだった。そんなものはセックスとも呼べない。ただペニスを動かして、精液を放出するだけのことだ。
適度に簡略化されたひとおおりの行為が終了すると、彼女は待ちかねていたようにすぐに眠りこんでしまったので、僕はろくに精液も拭きとらずに服を着こんで部屋を出た。暗闇の中で女の服とまぜこぜになった僕のポロシャツとズボンとパンツを探しあてるのは一苦労だった。
外に出ると酔いが真夜中の貨物列車みたいに急激に僕の体の中を通り抜けていった。まったくひどい気分だった。『オズの魔法使い』のブリキ男のように体がきしんだ。酔いざましに自動販売機のジュースを一本飲んだが、それを飲み終えるのと殆んど同時に僕の胃の中のものを全部路上に吐いた。ステーキやスモーク・サーモンやトマトの残骸だ。
やれやれ、と僕は思った。酒を飲んで吐くなんていったい何年ぶりだろう?俺はいったい最近何をやっているんだろう?同じことをくりかえしているのに、くりかえすたびに悪くなっていくみたいじゃないか。
それから僕は脈絡もなく、渡辺昇と彼の買ってきたはんだごてのことを考えた。
「はんだごてってひとつあると便利ですから」と渡辺昇は言った。

事務所に戻った『双子と沈んだ大陸』の「僕」のやれやれ

僕はウェイトレスに二杯目のコーヒーを注文し、雑誌のこのページを切りとって持って帰りたいのだがかまわないだろうかと訊ねてみた。今責任者がいないのでわからないが、そんなもの切りとったってべつに誰も気にしないと思うと彼女は言った。それで僕はプラスチックのメニュー台を使ってそおページをきれいに切りとり、四つに折って上着の内ポケットにしまった。

事務所に戻ると、ドアはあけっぱなしで、中には誰もいなかった。机の上には雑然と書類がちらかり、流しにはグラスや皿や汚れのこびりついたまま積みあげられ、灰皿は吸殻でいっぱいになっていた。事務の女の子が風邪で三日も休んでいるせいだ。
やれやれ、と僕は思った。三日前まではちりひとつない清潔なオフィスだったのに、これじゃまるで高校のバスケットボール部のロッカー・ルームみたいだ。
僕はやかんに湯をわかし、カップをひとつだけ洗って、インスタント・コーヒーを作り、スプーンがみつからないので比較的清潔そうなボールペンでかきまわして飲んだ。決して美味くはないが、ただの湯を飲んでいるよりはいくぶんましだった。

時の流れをふと振り返った時に訪れた『午後の最後の芝生』の「僕」のやれやれ

僕が芝生を刈っていたのは十八か十九のころだから、もう十四年か十五年前のことになる。けっこう昔だ。
時々、十四年か十五年なんて昔というほどのことじゃないな、と考えることもある。ジム・モリソンが「ライト・マイ・ファイア」を唄ったり、ポール・マッカートニーが「ロング・アンド・ワインディング・ロード」を唄ったりしていた時代
・・・・・中略・・・・・
とにかく、そんな風に毎日中学生を眺めていて、ある日ふと思った。彼らは十四か十五なのだと。これは僕にとってはちょっとした発見であり、ちょっとした驚きだった。十四年か十五年前には彼らはまだ生まれていないか、生まれていたとしてもほとんど意識のないピンク色の肉塊だったのだ。それが今ではもうブラジャーをつけたり、マスターベーションをやったり、ディク・ジョッキーにくだらない葉書を出したり、体育倉庫の隅で煙草を吸ったり、どこかの家の塀に赤いスプレイ・ペンキで「おまんこ」と書いたり、「戦争と平和」を – たぶん – 読んだりしているのだ。
やれやれ
僕はほんとうにやれやれと思った。
十四、五年前といえば、僕が芝生を刈っていたころじゃないか。

羊男の放ったひと言を聞いた『シドニーのグリーン・ストリート』の「僕」のやれやれ

「実は私の耳をとりかえしていただきたいのです」と羊男は言った。
「耳?」と僕は言った。
「つまり私の衣裳についている耳です。ほら、ここです」と言って羊男は指で頭の右上を指した。それと同時に彼の目玉もきゅっと右上にあがった。「こちら側の耳がちぎれてなくなっているでしょ」
たしかに彼の羊の衣裳に右側の耳 – つまり僕の方から見れば左側ということになるのだが – はちぎれてなくなっていた。左耳はちゃんとついていた。僕は羊がどんな耳を持っているかなんてそれまで考えたこともなかった。羊の耳というのは平べったくてひらひらとして横につきだしている。
「それで耳をとりかえしていただきたいのです」と羊男は言った。
僕は机の上のメモとボールペンを手にとり、ボールペンの先でコツコツと机をたたいた。
「くわしい事情をきかせて下さい」と僕は言った。「とられたのはいつですか?とったのは誰ですか?そしてあなたはいったい何なのですか?」
「とられたのは三日前です。とったのは羊博士です。そして私は羊男です」
やれやれ」と僕は言った。
「すみません」と羊男は言った。
「もっとくわしく話してくれませんか」と僕は言った。「羊博士だのなんだのっていわれても、僕にはちっともわからんのです」
「それではくわしくお話ししましょう」と羊男は言った。
「この世界には、たぶんあなたはご存じないと思うのですが、約三千人の羊男が住んでおります」と羊男は言った。

何も知らずにハワイへ来た若者と会話を交した『ハナレイ・ベイ』のサチのやれやれ

「ひょっとして、伝説のサーファーとかじゃないすよね?」
「そんなわけないじゃないの」とサチはあきれて言った。「ところであんたたち、ハナレイで泊まるところは決まってんの?」
「いいえ、行けばなんとかなるだろうって思ったから」と長身が言った。
「だめなら浜で野宿すればいいしとか思って」とずんぐりが言った。「俺たちあまり金ないし」
サチは首を振った。「この季節のノースショアはね、夜がやたら冷えるし、家の中でもセーターが必要なくらいなの。野宿なんてしたらまず身体を壊しちゃうよ」
「あの、ハワイって常夏じゃないんですか?」と長身が尋ねた。
「ハワイはしっかり北半球にあってね、ちゃんと四季もある。夏は暑いし、冬はそれなりに寒い」とサチは言った。
「じゃあ、どっか屋根のあるとこに泊まらなくちゃな」とずんぐりが言った。
「あの、おばさん、どっか泊まれるところ、紹介してもらえませんか?」と長身が言った。「俺たち、英語ってほとんどしゃべれないんです」
「ハワイはどこでも日本語が通じるって聞いてきたんですけど、来てみると、ぜんぜん通じないっすね」とずんぐりが言った。
「あたりまえじゃない」とサチはあきれて言った。「日本語が通じるのは、オアフのそれもワイキキの一部だけ。日本人が来て、ルイ・ヴィトンだとかシャネルだとか高いものを買っていくから、あっちも日本語ができる店員をわざわざ捜してくるの。あるいはハイアットとかシェラトンとかね。そういうところを一歩出たら、あとは英語しか通じない。なにしろアメリカだから。そんなことも知らないでカウアイまで来たの?」
「いや、知りませんでした。ハワイならどこでも日本語が通じるって、うちのおふくろが言ってたから」
やれやれ」とサチは言った。

最後の芝生が東京を超えていた時の『午後の最後の芝生』の「僕」のやれやれ

三日晴れがつづき、一日雨が降り、また三日晴れた。そんな風にして最後の一週間が過ぎた。夏だった。それもほれぼれするような見事な夏だ。空には古い思いでのように白い雲が浮かんでいた。太陽はじりじりと肌を焼いた。僕の背中の皮はきれいに三回むけ、もう真黒になっていた。耳のうしろまで真黒だった。
最後の仕事の朝、僕はTシャツとショートパンツ、テニス・シューズにサングラスという格好でライトバンに乗り込み、僕にとっての最後の庭に向った。車のラジオはこわれていたので、家から持って来たトランジスタ・ラジオでロックンロールを聴きながら車を運転した。クリーデンスとか、そんな感じだ。すべてが夏の太陽を中心に回転していた。僕はこまぎれに口笛を吹き、口笛を吹いていない時は煙草を吸った。FENのニュース・アナウンサーは奇妙なイントネーションをつけたヴェトナムの地名を連発した。
僕の最後の仕事場は読売ランドの近くにあった。やれやれ。なんだって神奈川県の人間が世田谷区の芝刈りサービスを呼ばなきゃいけないんだ?

羊男との会話が噛み合わない『図書館奇譚』の「僕」のやれやれ

僕は羊男と一緒にコーヒーを飲み、クッキーを食べた。ぽりぽり。
「ねえ、羊男さん」と僕は訊ねてみた。「脳味噌を吸われるのってどんな感じなんですか?」
「うん、そうだね、思っているほど悪くはないもんだよ。ちょうどね、頭の中にからまった糸をつうっと抜かれるような気分らしいよ。なにしろもう一度やってほしいっていう人もいたくらいだからね」
「へえ」
「とまあ、そういうことだよね」
「吸われちゃったあとはどうなるんですか?」
「残りの人生をぼんやりと夢見ながら暮らすわけさ。悩みもなきゃ、苦痛もない。イライラもない。時間の心配をしたり、宿題の心配をしたりしなくてもいいんだ。どうだい、素敵だろう?」
「まあね」と僕は言った。「でものこぎりで頭を切られちゃうんでしょ?」
「そりゃ少しは痛いさ。でもほら、そういうのはすぐに終っちゃうから」
「そうかな?」と僕は言った。どうも話がうますぎる。「ところであの美少女は脳味噌を吸われなかったんですか?」
羊男は椅子から二十センチもとびあがった。作りものの耳がはたはたと揺れた。「なんだい、その美少女っていうのは?」
「食事を持ってきてくれた女の子ですよ」
「変だな。食事はおいらが持ってきたんだよ。その時君はぐっすり寝てたんだぜ。おいらは美少女なんかじゃないよ」
また頭が混乱した。やれやれ

Q氏について思い返す『駄目になった王国』の「僕」のやれやれ

Q氏は僕と同い年で、僕の570倍くらいハンサムである。性格も良い。決して他人に威張ることがない。自慢もしない。誰かが何かで失敗して自分に迷惑がかかったとしても、べつに腹を立てたりはしない。「仕方ないよ、ま、お互いさまだものね」と彼は言う。でも彼が誰かに迷惑をかけたという話は一度も耳にしたことがない。それから育ちもいい。父親は四国のどこかで病院を経営している。だからいつもかなりの小遣いを持っていたが、べつに贅沢をするというわけでもない。いつもこざっぱりとしたなりをしている。服装の好みはとても良い。
それからスポーツ・マンでもある。高校時代はテニス部員でインターハイにも出た。趣味は水泳で、週に二度はプールに通う。政治的には穏やかなリベラルである。成績も – とびぬけてというほどではないにしても – 良い。殆ど試験勉強なんてしなかったけれど、単位はひとつも落とさなかった。授業中にきちんと講義を聞いているからである。
なかなか上手いピアノも弾く。ビル・エヴァンスとモーツァルトのレコードをいっぱい持っている。小説ではバルザックとかモーパッサンといったフランスものが好きだ。大江健三郎なんかも時々読む。そしてとても的確な批評もする。
もちろん女の子にももてる – もてないわけがない。しかしかといって「手あたり次第」というのでもない。彼にはきちんとした綺麗な恋人がいた。どこかの上品な女子大の二年生で、毎週日曜日にデートした。
やれやれ

若い女の子について考える『32歳のデイトリッパー』の「僕」のやれやれ

若い女の子って退屈だよ、というのが我々の仲間の統一見解である。にもかかわらず連中だってよく若い女の子とデートをする。それでは彼らはやっと退屈ではない若い女の子を捜し出したのだろうか?いや、そんなわけではない。要するに彼女たちの退屈さが彼らをひきつけるのである。彼らは退屈の水をバケツいっぱい頭から浴びながら、相手の女の子にはしずく一滴かけないというややっこしいゲームをごく純粋に楽しんでいるのである。
少なくとも僕にはそのように思える。
事実、若い女の子たちの十人中九人までは退屈な代物である。しかしもちろん、彼女たちはそんなことに気づいてはいない。彼女たちは若く、美しく、そして好奇心にみちている。退屈さなんて自分たちとは無縁の存在だと彼女たちは考えている。
やれやれ
僕はなにも若い女の子たちを責めているわけではないし、また嫌っているわけでもない。それどころか、僕は彼女たちが好きだ。彼女たちは僕に、僕が退屈な青年であった頃のことを思い出させてくれる。これはなんというか、とても素晴らしいことである。

とんがり焼に群がるとんがり鴉を見た『とんがり焼の盛衰』の「僕」のやれやれ

「この中にとんがり鴉さまがいらっしゃいます」と専務が言った。「とんがり鴉というのは昔々からとんがり焼だけを食して生きておる特殊な鴉の一族でありまして・・・・・・」
それ以上の説明は不要だった。部屋の中には百羽以上の数の鴉がいた。高さ五メートルくらいのがらんとした倉庫みたいな部屋に何本もの横棒が渡され、そこにとんがり鴉がずらりと並んで座っていた。とんがり鴉は普通の鴉よりずっと大きく、大きなもので体長一メートルくらいあった。小さいものでも六十センチくらいはある。よく見ると彼らには目がなかった。目のあるべき場所には白い脂肪のかたまりがくっついているだけだ。おまけに体ははちきれんばかりにむくんでいる。
僕たちが中に入った音を聞きつけるととんがり鴉たちはばたばたと羽ばたきをしながら一斉に何かを叫びはじめた。最初のうちはただの轟音にしか聞こえなかったが、やがて耳が馴れてくると彼らがみんなで「とんがり焼・とんがり焼」と叫んでいるらしいことがわかった。見るからにおぞましい動物だ。
専務が手に持っていた箱の中からとんがり焼を出して床に撒くと、百羽のとんがり鴉たちが一斉にとびかかった。そしてとんがり焼を求めて互いの足にくらいつき、目をつつきあった。やれやれ、目が失くなってしまうわけだ。

「三角地帯」の居住性に関する『チーズ・ケーキのような形をした僕の貧乏』の「僕」のやれやれ

「三角地帯」の両脇には二種類の鉄道線路が走っていた。ひとつは国鉄線で、もうひとつは私鉄線である。その二つの鉄道線はしばらく併走してから、このくさびの先端を分岐点として、まるでひき裂かれるように不自然な角度で北と南に分かれるのだ。これはなかなかの眺めである。「三角地帯」の先端で電車の往き来を眺めていると、まるで波を割って海上をつき進んでいく駆逐艦のブリッジに立っているような気分になる。
しかし住み心地・居住性という観点から見れば「三角地帯」は実に無茶苦茶な代物だった。まず騒音がひどかった。それはそうだ。なにしろ日本の鉄道線路にぴったりとはさみこまれているわけだから、うるさくないわけがない。玄関の戸を開けると目の前を電車が走っているし、裏側の窓を開けるとそれはそれでまた別の電車が目の前を走っている。目の前という表現は決して誇張ではない。じっさい乗客と目が合って会釈できるくらい間近に電車は走っていたのだ。今思い出してもたいしたものだという気がする。
でも終電が通ってしまえばあとは静かじゃないかとあなたは言うかもしれない。まあ普通はそう考える。僕だって実際に引越してくるまではそう考えていた。しかしそこには終電なんて存在しなかった。旅客列車が午前一時前に全部の運行を終えてしまうと、今度は深夜便の貨車の列がそのあとをひきついだ。そして明け方までかけて貨車がひととおり通り過ぎてしまうと、翌日の旅客輸送が始まる。その繰りかえしが来る日も来る日も延々と蜒々とつづくわけだ。
やれやれ

T字路に立つ『かいつぶり』の「僕」のやれやれ

二百メートルか三百メートル、いや一キロは歩いたかもしれない。僕は何も考えずにひたすら歩きつづけた。そこには距離もなければ時間もなかった。そのうちに前に進んでいるという感覚さえなくなってしまう。しかしまあ、とにかく前には進んでいたのだろう。僕はT字路のまんなかに立っていた。
T字路?
僕は上着のポケットからくしゃくしゃになった葉書を取り出し、ゆっくり読み返してみた。
「廊下をまっすぐ進んで下さい。つきあたりにドアがあります」、葉書にはそう書いてある。僕はつきあたりの壁を注意深く眺めまわしてみたが、そこにはドアの影も形もなかった。かつてドアがあったという痕跡もなければ、これから先ドアがとりつけられそうな見込みもない。それは実にあっさりとしたコンクリートの壁で、コンクリートの壁が本来的に有している特質の他には何ひとつ見るべきものはなかった。形而上学的なドアも、象徴的なドアも、比喩的なドアも、まるで何もない。
やれやれ
僕はコンクリートの壁にもたれかかって煙草を一本吸った。さて、これからどうすればいいのだろう。先に進んだものか。それともこのまま引き返したものか。

オバニオン警部のひと言を聞いた『サウスベイ・ストラット』の「私」のやれやれ

「なかなかやるね、探偵(シェイマス)」とドアの向うで誰かが言った。「でもそれまでだぜ」
「やっと読めてきたぜ。脅迫なんてそもそもなかったんだ。手紙のことも嘘だ。ジェイムソン事件のことで俺の口をふさぎたかったというだけのことなんだな」
「そのとおりさ、探偵(シェイマス)、めぐりがいいぜ。お前が口を開くと大勢の人が困ることになるんだ。だからお前さんはサウスベイ・シティーの安ホテルで売春婦と一緒に死ぬのさ。きっと悪い評判が立つぜ」
なかなか立派な筋書きだったが惜しむらくは科白が長すぎた。私はドアにむけてあと三発四五口径を撃ち込んだ。一発だけ手応えがあった。三割三分三厘、引退の潮時だ。誰かが十五ドルの花輪ぐらいは贈ってくれるかもしれない。
そして鉛のシャワーがジーン・クルーパーとバディ・リッチのドラム・バトルみたいにかさなりあい、十秒後に全てが終わった。いざとなれば警官の仕事は早い。いざとなるまでに時間がかかるというだけのことだ。
「もう来ないのかと思ったぜ」と私はどなった。
「来るさ」とオバニオン警部は間のびした声で言った。「ただ少ししゃべらせてみたかったのさ。君は実に見事にやったよ」
「相手は誰だい?」
「サウスベイ・シティーのちょっとしたやくざだよ。誰に頼まれたかは俺が腕によりをかけて口を割らせてみせる。ロスの弁護士もとっつかまえる。あてにしてくれていいぜ」
やれやれ、ずいぶん熱心じゃないか」
「サウスベイ・シティーもそろそろすっきりしてもいいころだからね。君の証言次第じゃ市長の椅子までぐらぐらするんだ。君の好みには合わないかもしれんが、世の中には買収されない警官だっているのさ」
「そうかい」と私は言った。
「ところで今回の俺の事件が罠だというのははじめからわかってたんだね?」
「わかってたさ。君は?」
「俺は依頼人を疑わない。そこが警官と違うところさ」
彼はニヤリと笑って部屋を出ていった。警官の笑い方はいつも同じだ。年金をもらえる見込みのある人間だけがそういう笑い方をする。彼が出ていったあとには私と女と数百発の鉛の弾丸だけが残された。

渡辺昇の冗談を聞いた『ファミリー・アフェア』の「僕」のやれやれ

「遊ぶことしか頭の中にないのよ。何かを真面目につきつめるとか、向上するなんて考えはゼロなの」
「夏の日のキリギリス」と僕は言った。
「そして真面目に生きている人をはすに見て楽しんでるのよ」
「それは違うね」と僕は言った。「他人のことと僕のことは別問題だ。僕は自分の考えに従って定められた熱量を消費しているだけのことさ。他人のことは僕とは関係ない。はすにも見ていない。たしかに僕は下らない人間かもしれないけど、少なくとも他人の邪魔をしたりしない」
「下らなくなんかないですよ」と渡辺昇がほとんど反射的に言った。きっと家庭のしつけがいいのだ。
「ありがとう」と言って、僕はワイン・グラスをあげた。「それから婚約おめでとう。一人で飲んじゃってて悪いけど」
「式は十月にあげるつもりなんです」と渡辺昇は言った。「リスも熊も呼べませんけど」
「そのことなら気にしなくていいよ」と僕は言った。やれやれ、この男は冗談を言っているのだ。
「それで、新婚旅行はどこに行くの?割引料金が使えるんだろう?」
「ハワイ」と妹が簡潔に言った。
それから我々は飛行機の話をした。僕はアンデス山中の飛行機遭難事件についての本を何冊か読んだばかりだったので、その話をした。
「人肉を食べるときは飛行機のジュラルミンの破片の上に肉を載せ、太陽で焙って食べるんだ」と僕は言った。

たまらなく女を抱きたいような気持になった『双子と沈んだ大陸』の「僕」のやれやれ

僕は二杯目のウィスキーを飲んでしまうと手帳と小銭を持ってピンク電話の前に行き、ダイヤルをまわした。しかし信号音が四回鳴ったところで思いなおして受話器を戻し、電話を切った。そして手帳を手にしばらく電話機をにらんでいたが、良い考えも思い浮かばなかったので、カウンターに戻って三杯目のウィスキーを注文した。
僕は結局何も考えないことにした。何を考えたところで、どこかにたどりつけるわけではないのだ。僕はしばらくのあいだ頭をからっぽにして、その空白の中に何杯かのウィスキーを注ぎこんだ。そして頭上のスピーカーから流れる音楽に耳を澄ませた。。そのうちにたまらなく女を抱きたいような気持になったが、誰を抱けばいいのかがわからなかった。べつに誰でもよかったのだが、そのうちの誰か一人をセックスの相手として具体的に想定することはできなかった。誰でもいいけれど、誰かでは困るのだ。やれやれ、と僕は思った。僕の知っている女が全部あつまってひとつに混じりあった肉体となら交わることはできそうだったが、どれだけ手帳のページを繰ったってそんな相手の電話番号がみつかるわけはなかった。
僕はため息をついて、何杯目なのか忘れてしまったオン・ザ・ロックの残りをひとくちで飲み干し、勘定を払って店を出た。そして通りの信号の前に立ち、「この次に何をすればいいのだろう」と思った。ほんのこの次にだ。五分後に、十分後に、十五分後に、僕はいったい何をすればいいのか?どこに行けばいいのか?何をしたいのか?どこに行きたいのか?何をすることになるのか?どこに行くことになるのか?
しかし僕にはひとつとしてその答を思いつくことはできなかった。

電話の受話器をとった『ローマ帝国の崩壊・一八八一年のインディアン蜂起・ヒットラーのポーランド侵入・そして強風世界』の「僕」のやれやれ

「もしもし」
と僕は大声でどなってみたが、結果は同じだった。
じっと耳を澄ましているとほんのわずかの風の切れめから女の声らしきものがちらりと聞こえたような気がしたが、それもあるいは僕の錯覚かもしれなかった。とにかく風の勢いが激しすぎるのだ。そしてたぶんバッファローの数が減りすぎたのだ。
僕はしばらく何も言わずに受話器にじっと耳をあてていた。耳が受話器にはりついてとれなくなってしまうんじゃないかという気がするくらいしっかりとだ。でも十五秒か二十秒そんな状態がつづいたあとで、まるで発作のたかまりの究極で、生命の糸が引きちぎられるかのように、ぷつんとその電話は切れた。そしてあとには漂白されすぎた下着のような暖かみのないがらんとした沈黙だけが、残った。

(3)ヒットラーのポーランド侵入
やれやれ、と僕はまたため息をついた。そして日記のつづきにとりかかった。急いでうけ終えてしまった方がよさそうだった。
土曜日にはヒットラーの機甲師団がポーランドに侵入していた。急降下爆撃機がワルシャワの街に –

猫を探しに行くことになった『ねじまき鳥と火曜日の女たち』の「僕」のやれやれ

近所の木立からまるでねじでも巻くようなギイイイッという規則的な鳥の声が聞こえた。我々はその鳥を「ねじまき鳥」と呼んでいた。妻がそう名づけたのだ。本当の名前は知らない。どんな姿をしているのかも知らない。でもそれに関係なくねじまき鳥は毎日その近所の木立にやってきて、我々の属する静かな世界のねじを巻いた。
いったいどうして僕がわざわざ猫を探しに行かなくちゃならないんだ、と僕はねじまき鳥の声を聞きながら思った。それにもしかりに猫がみつかったとして、それからどうすればいいんだ?家に帰るように猫を説得すればいいのか?ねえ、みんな心配してるから家に戻ってきてくれないかな、と頼めばいいのか?
やれやれ、と僕は思った。まったくやれやれだ。猫なんて好きなところに行って好きに暮していればいいじゃないか。いったい俺は三十にもなってこんなところで何をやっているんだ?洗濯をして、夕食の献立を考えて、そして猫探しだ。

電話のベルを聞いた『ねじまき鳥と火曜日の女たち』の「僕」のやれやれ

考えてみれば女はそもそもの最初からきちんと十分と時間を区切っていた。そして彼女はその限定された時間の設定に対してかなりの確信を抱いているように僕には感じられた。それは九分では短すぎるし、十一分では長すぎるのかもしれない。ちょうどスパゲティーのアルデンテみたいに・・・・・・。
そんなことをぼんやりと考えていると小説の筋がわからなくなってきたので、僕は軽い体操をしてからシャツにアイロンをかけることにした。僕の頭が混乱してくるとよくシャツにアイロンをかける。昔からずっとそうなのだ。
僕がシャツにアイロンをかける工程はぜんぶで十二にわかれている。それは (1) 襟(表)にはじまって (12) 左袖・カフで終る。その順番が狂うことはまったくない。僕はひとつひとつ番号を数えながら、順番にアイロンをかけていく。そうしないことにはうまくアイロンがかからないのだ。
僕はスチーム・アイロンの蒸気音とコットンが熱せられる独得の匂いを楽しみながら、三枚のシャツにアイロンをかけ、しわのないことを確認してからタンスにハンガーで吊した。アイロンのスイッチを切り、アイロン台と一緒に押入れの中にしまってしまうと、僕の頭はいくぶんすっきりしたようだった。
水を飲みたくなって台所に行こうとしたところで、また電話のベルが鳴った。やれやれ、と僕は思った。そしてそのまま台所に行こうか居間に戻ろうか少し迷ってから、やはり居間に戻って受話器をとることにした。あの女がかけなおしてきたのであれば、今アイロンをかけているところだからと言って、切ってしまえばいいのだ。

女と会話する『ねじまき鳥と火曜日の女たち』の「僕」のやれやれ

「私は今ベッドの中にいるのよ」と女は言った。「さっきシャワーを浴びたばかりで何もつけてないの」
やれやれ、と僕は思った。これじゃまるでポルノ・テープじゃないか。
「何か下着をつけた方がいい?それともストッキングの方がいい?その方が感じる?」
「なんだってかまわないよ。好きにすればいい」と僕は言った。「でも悪いけど、電話でそういう話をする趣味はないんだ」
「十分でいいのよ。たった十分よ。十分使ったからって別に致命的な損失ってわけじゃないでしょ?それ以上は何も求めないわ。よしみってものがあるでしょ?とにかく質問に答えてよ。裸のままがいい?それとも何かつけた方がいい?私、いろんなもの持ってるのよ。ガーター・ベルトとか・・・・・・」
ガーター・ベルト? と僕は思った。頭がおかしくなりそうだった。今どきガーター・ベルトをつけてる女なんて『ペントハウス』のモデルくらいじゃないか。
「裸のままでいいよ。動かなくていい」と僕は言った。
これで四分だ。
「陰毛がまだ濡れてるのよ」と女は言った。「よくタオルで拭かなかったの。だからまだ濡れてるの。あたたかくてしっとりと湿ってるの。すごくやわらかい陰毛よ。真っ黒で、やわらかいの。撫でてみて」
「ねえ、悪いけど – 」
「その下の方もずっとあたたかいのよ。まるであたためたバター・クリームみたいにね。すごくあたたかいの。本当よ。私いまどんな格好をしていると思う?右膝をたてて、左脚を横に開いてるの。時計の針で言うと十時五分くらい」
声の調子から、彼女が嘘をついていないことはわかった。彼女は本当に両脚を十時五分の角度に開き、ヴァギナをあたたかく湿らせているのだ。
「唇を撫でて。ゆっくりとよ。そして開くの。ゆっくりとね。指の腹でゆっくりと撫でるの。そう、すごくゆっっくりとよ。そしてもう片方の手で左の乳房をいじって。下の方からやさしく撫であげて、乳首をそっとつまむの。それを何度もくりかえして、私がいきそうになるまでね」
僕は何も言わずに電話を切った。そしてソファーに寝転んで、天井を眺めながら煙草を一本吸った。ストップ・ウォッチは五分二十三秒でとまっていた。

女の子に話しかけられた『ねじまき鳥と火曜日の女たち』の「僕」のやれやれ

あるいは僕は何かを考えていたのかもしれない。しかしもしそうだとしても、その作業は僕の意識の領域から外れた場所で行われていた。現象的には僕は草の葉の上に落ちた鳥の影をじっと見つめていただけだった。
鳥の影の中に誰かの声らしいものがしのびこんできたような気がした。それが誰の声なのか、僕にはわからなかった。でも女の声だ。誰かが僕を呼んでいるようだった。
うしろを振りむくと、向いの家の裏庭に十五か十六の女の子が立っているのが見えた。小柄で、髪はまっすぐで短かい。飴色の緑の濃いサングラスをかけ、肩口からはさみで両袖を切りとったライト・ブルーのアディダスのTシャツを着ている。そこからつきだした細い両腕はまだ五月だというのによく日焼けしていた。彼女は片手をショート・パンツのポケットにつっこみ、もう一方の手を腰までの高さの竹の開き戸の上に置いて不安定に体を支えていた。
「暑いわね」と娘が言った。
「暑いね」と僕も言った。
やれやれ、とまた僕は思った。今日いちにち僕に話しかけてくるのは女ばかりだ。
「ねえ、煙草持ってる」とその女の子が僕にたずねた。

雑誌の内容が予想と違った『ねじまき鳥と火曜日の女たち』の「僕」のやれやれ

彼女はそれからしばらくのあいだ黙っていた。僕は煙草を吸いながら、猫のとおり道をじっとにらいんでいた。これまでのところ猫は一匹として姿を見せていなかった。
「ねえ、本当に何か飲まない?私はコーラを飲むけれど」と娘が言った。
いらない、と僕は答えた。
娘がデッキ・チェアから立ちあがって片脚をひきずりながら木立の陰に消えてしまうと、僕は足もとの雑誌を手にとってぱらぱらとページを繰ってみた。それは僕の予想に反して男性向けの月刊誌だった。まん中のグラビアでは性器のかたちと陰毛がすけて見える薄い下着をつけた女がスツールの上に座って不自然な姿勢で両脚を大きく開いていた。やれやれ、と僕は思って雑誌をもとの場所に戻し、胸の上で両腕を組んで再び猫のとおり道に目を向けた。

眠れない『眠り』の「私」のやれやれ

私の友人が金縛りにあった時、彼女は婚約者の家に泊まりに行っていた。彼女が寝ていると五十くらいのむずかしい顔をした男の人が出てきて、お前はこの家から出ていけと言った。彼女はそのあいだぴくりとも動けなかった。そしてやはり汗でぐっしょり濡れてしまった。あの人は彼の亡くなったお父さんの幽霊に違いない。そのお父さんが私に出ていけと言っているんだ、と彼女はそのとき思った。でも翌日婚約者にそのお父さんの写真を見せてもらうと、それは昨夜出てきた男とはまったく違う顔をしていた。たぶん私はとても緊張していたのだと思う、と彼女は言った。だから金縛りになんかなったのよ、と。
でも私は緊張なんかしていない。それにここは私の家だ。私を脅かすようなものはここにはないはずだ。どうして私が今ここで金縛りになんかならなくてはならないのだろう?
私は首を振った。もう考えるのはよそう。考えるだけ無駄だ。あれはただのリアルな夢だったのだ。たぶん知らないうちに疲れが体に溜まっていたのだ。きっと一昨日のテニスのせいだ。水泳のあとで、クラブで会った友達に誘われるままに少し長くやりすぎたのだ。そのあと手足がしばらくだるかったもの。
私は苺を食べてしまうと、ソファーに横になった。そしてためしにちょっと目を閉じてみた。
まったく眠れない。
やれやれ、と私は思った。本当に全然眠くないのだ。

トニー滝谷の家の衣装室を思い返す、『トニー滝谷』のアシスタントに応募してきた女のやれやれ

彼女はトニー滝谷の家から持ってかえってきた何着かの服を一枚一枚きれいに広げて洋服ダンスにかけ、靴を靴箱に入れた。それらの新参者に比べると、もとからそこにあった彼女の自前の服や靴はみんな愕然とするくらいみすぼらしく見えた。それはまったく違う次元の素材で作られた別の種類の物質であるように彼女には感じられた。彼女は面接のために着ていった自分の服を脱いでハンガーにかけ、ブルージーンズとトレーナーシャツに着替え、床に座って冷蔵庫から缶ビールを出して飲んだ。そして彼女はトニー滝谷の家の衣装室にあったあの洋服の山を思い出して溜め息をついた。あんなに沢山の美しい服、と彼女は思った。やれやれ、あの衣装室はこの私の住んでいるアパートの部屋よりもまだ広いのだ。あれだけの服を買い集めるには、きっとものすごいお金と時間がかかったに違いない。でもその人はもう死んでしまったのだ。部屋ひとつぶんのサイズ7の服をあとに残して。あんなに素敵な服をいっぱい残して死んでしまうというのはどんな気持ちのするものなのだろう、と彼女は考えた。

帰宅した妻が言うであろう台詞を思い浮かべる『TVピープル』の「僕」のやれやれ

それからTVピープルは雑誌をどかせてテーブルの上に置いた。全部妻の雑誌だった(僕は雑誌はほとんど読まない。本しか読まない。僕は個人的には世の中の雑誌という雑誌が全部きれいに潰れてなくなってしまえばいいと思っている)。『エル』とか『マリ・クレール』とか『家庭画報』とか、その手の雑誌だ。そういうのがサイドボードの上にきれいに積み重ねてあったのだ。妻は自分の雑誌に手を触れられるのも好まない。積み重ねられた順番が変わっていたりしたらちょっとした騒ぎになる。だから僕は妻の雑誌になんて近寄りもしない。ページをめくったことさえない。でもTVピープルはそんなことにおかまいなく、どんどん雑誌をどかせてしまう。彼らには雑誌を大事に扱おうという気配はまったくない。彼らはそれをただ単にサイドボードの上から別のどこかにどかせたいというだけなのだ。積み重ねられた雑誌の上下が入れ代わる。『マリ・クレール』が『クロワッサン』の上になる。『家庭画報』が『アンアン』の下になる。それは間違いだ。おまけに彼らは妻が何かの雑誌にはさんでおいた栞をばらばらと床に落としてしまう。栞がはさんであったところは、妻にとっての重要な情報が載っていたページなのだ。それがどんな情報でどれほど重要なのか、僕は知らない。彼女の仕事に関係したことかもしれないし、あるいは個人的なことかもしれない。でもとにかく、彼女にとってはそれは大事な情報だったのだ。きっとすごく文句を言うだろうな、と僕は思った。私がたまにお友達と会って気持ち良く楽しんで帰ってきたら、家の中がきまって無茶苦茶になっているんだから、とかなんとか。僕はその台詞を全部思い浮かべることができた。やれやれ、と僕は思った。そして首も振った。

夫が眠っている寝室へ行った『眠り』の「私」のやれやれ

部屋に戻ると、私はまず寝室に行って、夫がちゃんと眠っていることを確かめた。夫はいつも間違いなく眠っていた。それから私は子供の部屋に行った。子供も同じように熟睡していた。彼らは何も知らないのだ。彼らは世界が何の変化もなくこれまでどおりに動いていると信じきっているのだ。でもそうではないのだ。世界は彼らの知らないところでどんどん変化しているのだ。とりかえしのつかないくらいに。
私はある夜、眠っている夫の顔をじっと眺めたことがあった。寝室でばたんと音がしたので、慌てて行ってみると目覚まし時計が床に落ちていた。たぶん夫が寝惚けて腕を動かすかなにかして、その時に払い落とされたのだろう。それでも夫は何もなかったように熟睡していた。やれやれ、いったい何があったらこの人は目を覚ますのだろう?私は時計を拾いあげ、枕もとに置いた。そして腕組みをして、夫の顔をじっと見てみた。夫の寝顔をしげしげと眺めるなんてずいぶん久し振りのことだった。何年ぶりかしら?
結婚した頃はよく寝顔を眺めたものだった。眺めているだけで、ほっとした平和な気分になれた。この人がこうして平和に眠っているかぎり、私は無事に守られている、と私は思ったものだった。だから昔、私は夫が眠ってしまってから、よくその寝顔を見ていたものだった。

中古レコード店でレコードを漁る『偶然の旅人』の村上春樹のやれやれ

「Hey, you have the time?(今何時?)」
僕は腕時計に目をやり、機械的に答えた。「Yeah, it’s 10 to 4」
そう答えたあとで、そこにある偶然の一致に気づいて息を呑んだ。やれやれ、僕のまわりでいったい何が持ち上がっているのだろう?ジャズの神様 – なんてものがボストンの上空にいればの話だが – が僕に向かって、片目をつぶって微笑みかけているのだろうか?よう、楽しんでいるかい(Yo, you dig it?)、と。

『恋するザムザ』の主人公グレゴール・ザムザと会話する鍵師の娘のやれやれ

「それで、問題の錠前はどこなの?」
「錠前?」
「壊れた錠前のことよ」、苛立ちが声に出るのを隠そうという努力を娘は最初から放棄していた。
「錠前が壊れたから修理に来てほしいというお話だったけど」
「ああ」とザムザは言った。「壊れた錠前ね」
ザムザは必死で思考を働かせた。しかし意識をひとつに集中すると、頭の奥の方でまた黒い蚊柱が立ち上がる感触があった。
「ぼくは錠前のことは、とくになにも聞いてないんだけど」と彼は言った。「たぶん二階のドアのどれかのことだと思うんです」
女は顔を大きくしかめ、首を曲げてザムザを見た。「たぶん?」、その声は更に冷ややかさを増していた。一方の眉毛がぐいと上に持ち上げられていた。「どれか?」
自分の顔が赤くなるのがザムザにはわかった。自分が壊れた錠前について知識をまったく持ち合わせていないことがとても恥ずかしかった。彼は咳払いをしたが、言葉はうまく出てこなかった。
「ザムザさん。ご両親は今おられないの?あたしとご両親とでじかにお話をした方がいいように思うんだけど」
「今は用事があって外に出かけているようです」とザムザは言った。
「外に出かけている?」と娘はあきれたように言った。「こんなさなかにいったい何の用事があるっていうの?」
「よくわからないけど、朝起きたら、うちの中には誰もいなかったんです」とザムザは言った。
やれやれ」と娘は言った。「そして長いため息をついた。「朝のこの時刻に修理にうかがうと、前もってちゃんと申し上げておいたんだけどね」
「申しわけありません」

相談を持ちかけられた『イエスタデイ』の谷村くんのやれやれ

「樹木がたくましく大きくなるには、厳しい冬をくぐり抜けることが必要なみたいに。いつも温かく穏やかな気候だと、年輪だってできないでしょう」
僕は自分の中にある年輪を想像してみた。それは三日前のバームクーヘンの残りのようにしか見えなかった。僕がそう言うと彼女は笑った。
「たしかにそういう時期も人間には必要なのかもしれない」と僕は言った。「それがいつか終わるとわかっていれば、もっといいんだけどね」
彼女は微笑んだ。「大丈夫よ。あなたならきっとそのうちに良い人が見つかるから」
「だといいんだけどね」と僕は言った。だといいのだけど。
栗谷えりかはしばらく何かを一人で考えていた。そのあいだ僕は運ばれてきたピザを一人で食べていた。
「ねえ、谷村くんにちょっと相談があるんだけど。聞いてくれる?」
「もちろん」と僕は言った。そして、やれやれ、困ったことになりそうだなと思った。確かにすぐ大事な相談をもちかけられてしまうことも、僕の抱える恒常的問題のひとつだ。そして栗谷えりかが持ちだそうとしているのが、僕にとってあまり心愉しくない種類の「相談」であることも、かなりの確率で見当がついた。
「私は今けっこう迷っているの」と彼女は言った。

旅行で目にする「束の間」に通り過ぎていく風景をふと思い出した『使いみちのない風景』の村上春樹のやれやれ

考えてみれば、僕はこれまでに七編の長編小説を書いたけれど、同じ場所で二つの小説を書いたことはない。引っ越すたびにひとつ小説を書いていたようなものだ。
だからひとつの長編小説は、僕の中で、ひとつのそれ独自の場所と風景を持っているということになる。
でも、クロノロジカルな風景を収めたそういう引き出しとはべつに、僕の中には旅行の過程で目にした「束の間」の通り過ぎていく風景を収めた引き出しもある。
そしてその二種類の風景のあいだには、かなり大きな質的な差がある。
おおまかに言えば、僕は必要に応じて意識的に前者の記憶を引き出すことができる。でも後者の記憶は往々にして、まったく唐突に、ほとんど身勝手に、僕の前に姿を現すことになる。
それらの記憶の多くの場合、非整合的であり、筋道や一貫性を欠いている。そしてそこには何かしらミステリアスな要素がある。
そういう記憶が頭の中にふとよみがえるたびに、僕はこう思う。
やれやれ、なんでこんな風景をいつまでも覚えているんだろう。どうしてよりによって今、こんな風景を思い出さなくてはならないんだろう」と。

パンの大きな塊りを食べた『雨天炎天』の村上春樹のやれやれ

それはともかくとして、我々はどうやら朝食を食べ逃してしまったようである。だんだん腹が減ってきた。ためしに台所に行っておじさんにきいてみると、これだけあげるからとりあえず食べてなさいと言って、パンの大きな塊りをくれた。僕らはそれを部屋に持ってかえって食べたが、これは昨日よりもっと固くなっていて、とても食べられた代物ではなかった。やれやれこれから毎日こんなパンを食べさせられるのかとうんざりしたが、結果から言うと、これはアトス半島にあっては例外的に不味いパンであって、他の修道院ではもっとずっと美味しいパンを出してくれた。ただで食事をさせてもらってこういうことを書くのは心苦しいけれど、もし『アトス山ミシュラン』みたいなガイドブックを作るとしたら、イヴィロン修道院の台所は星なしということになると思う。残念ながら。
七時四十分に、我々はリュックを背負って、この星なし修道院をあとにする。

夏のギリシャで雨に降られる『雨天炎天』の村上春樹のやれやれ

明日の朝早く出発するので、朝食が食べられないんだが、とマシューに言うと、台所からパンとチーズとオリーヴをたっぷりと持ってきてくれた。そしてビニールの袋に入れて「これを持っていきなさい」と言う。まったく親切な男である。我々は礼を言ってありがたく受け取る。パンもチーズもオリーヴも、彼らが自分の手で作り育てたものなのだ。
夕食のあとで、マシューが修道院の畑を案内してくれる。畑にはトマトや茄子やキャベツや葱が植えてあった。見たところ非常に豊かな土壌のようである。きっと雨が多いから、野菜の栽培には向いているのだろう。夕暮れが深まり始めると、それに呼応するかのように雷の音が聞こえはじめた。遠い雷だが、音はやすみなくつづく。また雲が出はじめている。明日の天気が心配だな、と思っているうちにぱらぱらと雨が降り出した。やれやれ

アトスの道を先へ進む『雨天炎天』の村上春樹のやれやれ

彼らはたぶん下の方に寝る場所があるのだろうが、昼飯は途中にある仮住まいの小屋ですませるようである。柱を立てて、温室みたいにまわりにビニールを張っただけのものだ。小屋の脇には湧き水があって、これはとても冷たくて美味しい。樵の親子はその水でコーヒーを作ってくれる。子供はジャッキー・チェンのファンなんだと言う。ギリシャにおけるジャッキー・チェンの人気というのは、これはもう圧倒的である。ロバート・デ・ニーロとトム・クルーズとハリソン・フォードが束になってかかってもかなわないんじゃないかという気がする。この人たちの通う映画館にはたぶんフィルム代の安い香港映画くらいしか来ないのだろう。
コーヒーを飲んでみんなで記念撮影し、それから彼らに礼を言って、僕らは先に進む。道をずっと下りていくと、たしかに「グランデ・ラヴラ」と書かれた標識があった。僕らがへとへとになって十時半にそこにへたりこんで軽食を食べて休憩した、ちょうどその地点である。たぶんあまりにもへとへとになっていて、さあ休憩だと思う一心で見落としてしまったのだろう。ちょうど僕らの座った場所からはその標識が死角になっている。やれやれ、これでまた三時間くらい無駄についやしてしまった。こんなことを続けていると、夜になっても修道院にたどりつけずに、狼だか山犬だかとともに野宿するなんてことにもなりかねない。

やっとのことで船着き場に到着した『雨天炎天』の村上春樹のやれやれ

船着き場は町が終ったそのまだ下にある。野壺の底みたいなところだ。崖についた勾配の急な階段をずっと下まで下りていくと、たしかにコンクリートの突堤のようなものが海に向かって突き出している。波がそこにざぶんざぶんとぶつかってしぶきを上げ、そこかしこに暗い色合いの藻をうちあげている。そして見渡す限りの海上に雨が降りそそいでいる。背後は絶壁である。それ以外には何もない。波止場の建物もなければ、表示もない。ただ単に突堤があるだけである。やれやれ、こんなところであと二時間雨に濡れて船を待つのかと思うと気が滅入ってくる。

奥さんの村上陽子さんへトルコから電話する『雨天炎天』の村上春樹のやれやれ

「あなた電話ひとつしてこないじゃない。私がどんなに心配してるか知らないでしょう」
と彼女は怒った。僕はトルコの電話がどれくらいヤクザなものかということを説明した。公衆電話は通じないし、それではと思ってこのあいだ電話局で交換を通して電話したら、通じてもいないのに千円も取られたんだと。「じゃあホテルからダイレクトでかけなさいよ」と彼女は言う。彼女は知らないのだ、ホテルには電話なんて存在しないのだということを。でもとにかく女房と二十分話せた。「男ふたりで楽しんでるんでしょう」と彼女は言った。おい、と僕は思った。いったいここのどこで楽しめというのだ?ふたりとも下痢して、ひどい道路を命がけで運転して、暑さに参って、犬の襲われて、子供に石を投げられて、朝からパンしか食べてなくて、風呂にだってずっと入ってないんだぞ。どこで楽しめと言うのだ?
でも僕は何も説明しなかった。そんなこと電話で説明しても、こっちが惨めになるだけだ。やれやれ

食あたりをして、嘔吐と下痢に苦しむ『辺境・近境』の村上春樹のやれやれ

食あたりになると、嘔吐と下痢がやってくる。同時にやってくる。嘔吐と下痢とどちらが苦しいかときかれても困る。そのうちに嘔吐と下痢の見分けがつかなくなってくるくらい、どちらもきついのだ。これがだいたい断続的に六時間くらい続く。そのあいだ、ほとんど起き上がることができない。抗生物質のようなものを飲むのだが、たいした効果はない。ただ吐いて、ただ下痢をして、ただ横になっているだけである。最後には吐くのにも、下痢をするのにも、横になっているのにも、ほとほとうんざりしてくる。このまま意識を失って死んでしまうのではないかという気さえしてくる。「やれやれ、こんなろくでもないメキシコのホテルの、ろくでもないベッドの上で、海老のフライだか、マカロニ・サラダだかを食べたせいで死にたくなんかないな」と思う。そういえばレイモンド・チャンドラーの『長いお別れ』の中で、テリー・レノックスはうらぶれたメキシコの町のうらぶれたホテルの一室で死んだ – 死んだことになっていた。でも彼にはその死を悼んでくれる友人がいた。彼のためにギムレットを飲んでくれる友人がいた。僕の場合はそうはいかない。僕が死んだらきっとみんなは陰でこう言うだろう。「ムラカミ・ハルキもなんでわざわざメキシコなんかに行ったんでしょうね。ほら、メキシコって、あの人にはなんとなくそぐわないじゃないですか。とくに何か、メキシコに行かなくてはならないような理由があったんですかね。よくわかりませんね。でも、それにしても、マカロニ・サラダを食べて、下痢しながら死ぬなんて、まったくみっともない死に方ですね。おまけに下痢しながら吐いていたっていうじゃありませんか。人間、そういう死に方をしたらもうお終いですね。死に方というのはやはり大事ですよ」

生まれて初めてのマラソンを3時間51分で走った『走ることについて語るときに僕の語ること』の村上春樹のやれやれ

アテネからマラトン村までの所要時間3時間51分。好タイムとは言えないが、とにかく僕は一人きりでマラソン・コースを走りきったのだ。交通地獄と、想像を絶する暑さと、激しい渇きを相手にまわして。たぶん誇りに思ってもいいはずだ。しかしそんなことは、今のところどうでもいい。とにかくもうこれ以上一歩たりとも走る必要はない – なんといってもそれがいちばん嬉しい。
やれやれ、もうこれ以上走らなくていいんだ。

生まれて初めてのマラソンを走った『走ることについて語るときに僕の語ること』の村上春樹のやれやれ

そう、ある種のプロセスは何をもってしても変更を受け付けない、僕はそう思う。そしてそのプロセスとどうしても共存しなくてはならないとしたら、僕らにできるのは、執拗な反復によって自分を変更させ(あるいは歪ませ)、そのプロセスを自らの人格の一部として取り込んでいくことだけだ。
やれやれ