丸谷才一さんによる群像新人文学賞の選評

新しいアメリカ小説の影響 – 丸谷才一

村上春樹さんの『風の歌を聴け』は現代アメリカ小説の強い影響の下に出来あがつたものです。カート・ヴォネガットとか、ブローティガンとか、そのへんの作風を非常に熱心に学んでゐる。その勉強ぶりは大変なもので、よほどの才能の持主でなければこれだけ学び取ることはできません。昔ふうのリアリズム小説から抜け出さうとして抜け出せないのは、今の日本の小説の一般的な傾向ですが、たとへ外国のお手本があるとはいへ、これだけ自在にそして巧妙にリアリズムから離れたのは、注目すべき成果と言つていいでせう。
しかし、たとへばカート・ヴォネガットの小説は、共笑のすぐうしろに溢れるほどの悲しみがあつて、そのせいでの苦さが味を引き立ててゐるのですが、『風の歌を聴け』の味はもつとずつと単純です。たとへばディスク・ジョッキーの男の読みあげる病気の少女の手紙は、本来ならもつと前に出て来て、そして作者はかういふ悲惨な人間の条件ともつとまともに渡りあはなければならないはずですが、さういふ作業はこの新人の手に余ることでした。この挿話は今のところ、小説を何とか終らせるための仕掛けにとどまつてゐる。あるいは、せいぜい甘く言つても、作者が現実のなかのある局面にまつたく無知ではないことの證拠にとどまついてゐる。このへんの扱ひ方には何となく、日本的抒情とでも呼ぶのが正しいやうな趣があります。もちろんわれわれはそれを、この作者の個性のあらはれと取つても差支へないわけですけれど。そしてここのところをうまく伸してゆけば、この日本的抒情によつて塗られたアメリカふうの小説といふ性格は、やがてはこの作家の独創といふことになるかもしれません。
とにかくなかなかの文筆で、殊に小説の流れがちつとも淀んでゐないところがすばらしい。二十九歳の青年がこれだけのものを書くとすれば、今の日本の文学趣味は大きく変化しかけてゐると思はれます。この新人の登場は一つの事件ですが、しかしそれが強い印象を与へるのは、彼の背後にある(と推定される)文学趣味の変革のせいでせう。この作品が五人の選考委員全員によつて支持されたのも、興味深い現象でした。

その他の選考委員の選評

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